Trilogie

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  2. Nothing for Nothing  


夕刻だった。

暇つぶしに、休憩室代わりに使われている小部屋に入るとマチがいた。いつもは高く結っている髪を珍しく下ろしている。

それを見て突如、数日前の夜の記憶が蘇ってぞくりときた。
乱れ散らばる、長い髪。
あれから日常の忙しさに埋没していて殆ど忘れていたのに。

女は読書灯の側で何やら熱心に読んでいた。一瞬だけこちらをみて、ああ、と言ったけれどそれだけで特に言葉もかけない。そういえばあの日以来、まともに話した記憶はなかった。

それは思い返せば些細なアクシデントのような出来事だった。
ふとしたはずみに、誘われて寝た。少し話してそれぞれ自分の部屋に戻り次の日起きて会ったらまた元通りよそよそしかった。その後大きい仕事が入って忙しくなって忘れた。
本当にそれだけで、今更蒸し返すでもないことだった。

一晩の相手にはもともと不自由してなかったし、むしろ始終顔を突き合わせる相手とその種の関わりは避けた方が懸命とすら考えていたはずだったからだ。

だけど、日没も終わりに近づいた部屋の薄暗さや、二人きりでいること、女の髪型だとか、些細な偶然の条件が揃ったせいだろう。
変な気まぐれが起きた。

テレビを見たい振りをして、マチのいる側のソファーに近づく。

「隣座ていいか。」

声をかけても向こうは淡々としていて、どうぞ、と一瞥だけしてまた本に目を戻した。
人間一人分くらいの間隔はあけて座り、まずはリモコンでテレビのスイッチを入れる。拾ってきたガラクタを改造したやつだから、砂嵐がひどくて色もおかしい。
適当な番組を探し後ろ手をくんでソファーに沈みこんだ。
テレビを見ている振りをしながら女の方を盗み見ると、番組の音をうるさいと思う様子もなく、まだ熱心に本を読んでいる。いや、単にその振りをしているのかもしれなかいがわからなかった。



数分が過ぎ、心を決めた。

そっと手を伸ばす。長く肩に垂れた髪を一房とった。
ぴくりと反応して女がこっちを見る。

「何。」

「ホコリがついてたね。」

「ああ…ありがとう。」

もちろん嘘。そのまま、手入れのよい艶やかな毛先を指で弄ぶ。

「何してんのよ。」

「こないだは、楽しかたよ。」

「……。」

「良かたら今度、お返しがしたいね。」

パタンと本を閉じる音がした。
そして、素っ気ない口調で、悪いけど、と続く。

「…あの時は、あたしの方がどうかしてた。」

「そうか。」

「だから、あれは無しにして忘れて。その手を離して。」

淡々と言い放ち、目線を反らし顔を背ける。
平静を装い堅く結ばれた唇。
だけど、実力行使でこちらの手を払いのけようとはしていない。こいつになら、出来ないわけでもないのに。
そこに迷いを見て取った。
だから押してみる。

「それは難しいね。今日はワタシの方が、どうかしてるから。」

マチの双眸が再び自分を捉える。じっと見つめ返すと、いつもの強気な女には珍しい、当惑に近い表情が現れた。一瞬、補食欲、とでも呼びたくなるほどの強い衝動が沸き上がるのを押さえる。

そのまま相手が動かないのをいい事に、少しずつつるつるとした長い髪に指を絡ませ、ゆっくりと櫛ですくように撫でる。肩に散らばる豊かなその艶を指先で確かめながら、細くなり消えていく毛先まで流れを辿る。

「やめてよ。」
尖った声。しかしどこか弱々しい。
「ハハ、やめるわけないね。」

そして、お前の髪は本当に綺麗だ、と言ってみた。向こうには取って付けたように聞こえたかもしれないが一応は本心だった。
マチは眉間にしわを寄せ、自分の方を睨んでいるが動かない。次の行動を決めかねているようだった。数日前、薄暗い部屋で有無を言わせず自分を押し倒した女とはまるで別人のようで、愉快になる。

更に少し身を寄せると、膝に置かれた二つの手が躊躇いながらぴくりと動いた。
相手が抗うことを予測し、自分も動きを止める。

しかしその気配はなく、浮き上がった手は膝に下ろされた。
まるで何かを諦めたかのように。


勝った、と思った。


肩口から先の髪だけをすいていた手を更に上にずらし、後頭部へとのばす。まずは髪の上から、次に指を地肌の体温が感じられるところまでそっと入れてかき撫でる。豊かな髪の重みが指の間にまとわりつき、ふわりと微かに良い香りがした。

女の表情に浮かぶ葛藤は消えない。
だが、悩ましげに眉をひそめながらも、ついにうつむいて瞳を閉じた。
唇から漏れたのは押し殺したような吐息。


それを合図に、横から身体を抱き寄せた。







不思議な感覚。


まずは征服感に、他愛もない歓びがこみ上げた。
でも次に、頭の中の冷めた部分が矛盾を告げるのだった。

征服、何を?
…と。

どのみち、肉体的な面では既に全てが済んでいるし(それも向こうのお陰で)、だからといって別にとりたてこの女の心が欲しいなどと思った記憶もない。
(…だいいち、自分と同じ蜘蛛のこいつにそんなものがあるのかどうか。)

要するに、失うものもなければ得るものも最初から何もないのだった。



だがそんなことを思いながらも、愛想のない女の体温を傍らに感じているのは悪い気分じゃない。

この女といい自分といい人間とは奇妙なものだと思った。

そして、ひとまずこの後どうしようかとぼんやり考えた。



そのときだ。
「おい、集合だ!集まるぞ!」
フィンクスの声が廊下から聞こえてきた。

夢から覚めたように、はっと二人身を離した。
また、何事もなかったような顔をして。





続く

【作者後記】
フィンクスをお邪魔虫にしてごめんなさい…。
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