sanctus
4
カヲルは正体無く眠りこけているようだった。
だけどそろりとベッドから抜け出た途端、身動きして目を覚ました。ぐしゃぐしゃに乱れた髪を直そうともせず寝ぼけ眼で笑って、手招きする。
裸のまま寝台の縁に腰掛けて、何?と聞いたら無言で手を伸ばしてきた。カーテンの隙間からのびる街灯の光に、一瞬だけその手首の古傷が浮かび上がる。
「…少し、こうしていようよ。」
カヲルがあたしを抱きかかえるようにした。しっかりとしているけど逞しいとは言えないやせぎすの肩に、あたしが頭をのせるような格好になる。
「せっかく今、誰かといるんだから。」
カヲルはあたしより一回り大きい。だけどすごく大きいというわけではない。
抱きしめられているけれど、どこか頼りないような不思議な感じ。でもだから余計に、寄り添っているような心地。
彼が言った。
「…僕の噂、聞いているんだろう?」
誰とでも寝るという噂のことだろう、とあたしは判断する。
「……ええ。」
「そうだろうと思った。」
静かに微笑む気配がした。
「…人間って、本当に難しいよ。僕はいつもよくわからなくなる。」
カヲルがぽつりとつぶやく。
「例えば、一番心を許せるはずの家族といて……どうしようもなく、苦しくなってしまったりする。」
脈絡の読めない発言。でも、何故か今、この状況で聞くことに違和感はなかった。
答えずに、あたしは本棚の上に飾られたクリスマスの飾りを見る。いい思い出がないなんて言ったくせに、カヲルはささやかな飾り付けをしていた。素朴な木彫りの天使達、おそらくは外国製の。
「だけどその一方で、何も知らない他人とこうして、喜びと安らぎを感じることもある。」
「あたしといて、安らぐってわけ?」
ろくでもない思い出話しかしなかった女と?
「うん。少なくとも今は、ね。」
…ああ、そうか。わかるわ。
だって、現実逃避だもの。知らない人とこうして夢をみる。
「だから、オヤジに掘らせたりしてるんだ?」
意地悪な質問をしたのは、多分、距離が近づきすぎないようにしたかったからだと思う。
カヲルが一瞬沈黙し、ぶっと吹き出した。いきなり訊くんだね、笑って、でもそうだよ多分、と少し低い声で肯定する。
「…やっぱり安らぐんだ。見知らぬ人でも、側にいると。いや、あまりよく知らない人だからかも知れない。」
それに毎回それなりに気持ちもいいしね。おどけた調子で続けた。
そして一息呼吸をおいて、言う。
「君もそうだろ?だから僕と今ここにいて、こんなことしてる。」
あたしは答えなかった。
「あんたは…どうしてクリスマスが嫌いなの。」
カヲルが笑みを浮かべたまま、目を伏せた。
「今はもう、嫌いじゃないよ。ただ、いい思い出がないだけだ。」
「…でも、家に帰りたくないんでしょ。」
至近距離、一瞬、その瞳に少し寂しい光が通り過ぎるのを見た。
「もう帰らなくていいってわかったから、嫌いじゃない。」
穏やかな声の中に理不尽なまでに強い決意。虚を突かれて、あたしは思わず押し黙った。
「ごめん、僕が何を言っているか、わからないよね。」
カヲルが目を伏せて、あたしを抱える腕に少しだけ力を込める。
ええ、わからないわ。そう答える代わりに、あたしもカヲルの背に手を回した。
二人向かいって額を寄せて、抱きしめ合うような姿勢になる。カヲルの体に遮られて、視界の前に闇。
思った。あたしは「帰らない」と言えるかしら。
怒って意地悪をして、悪態をついて、でも心の片隅にいつもパパはいた。
結局の所、あたしは必要としているのだ。パパを憎むということを。
そのことすら切り落としてしまおうとまでは、まだ思っていない。
ぼんやりとした頭で、考えをめぐらせる。
憎むことすら捨てようと考えるのは、どんなときかしら。
まるで思い出全てをそぎ落とすかのように。
それはあまりにも厳しく寂しいことに思えたし、何があればそうまでなるのか、あたしにはわからない。
カヲルを遠いと感じた。
でも遠いけど、体温が伝わってくる。
見知らぬ他人同士、寄り添って沈黙したまま、言葉がいらない。
……変な感じ。
そのときだった。ふと、うわごとのような声がした。
「でも…いつか、赦せれば…」
「え、何?ゆるす…?」
はっとカヲルがはじかれたように目を見開く。
「…ごめん、寝ぼけた。ちょっと眠るよ。何だか今日は…疲れてて…。」
「体力無いわねぇ。シャワー、使ってもいい?」
「うん、もちろん。確かに体力無いな…。」
「おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
*
蛍光灯の光、小さな安っぽいシャワールームは夢のように白い。
暖かい湯を浴びてほっと一息。見知らぬ天井をぼんやりと見つめる。
…あの夜も、雪が降っていた。
寒い寒い国。ここよりずっと。
粉雪の中、パパはママを抱きしめて泣いてた。許してくれって。
広い背中が細いままの体を折れんばかりに抱きしめて、嗚咽した。
子供のように無きむせんだ。
叫び続けていたママの声がすすり泣きに変わる。
狂ったようにもがいていたママの腕がだらりと垂れ、教会の鐘が鳴り響いた。
遠くに賛美歌が聞こえたような気がした。
もうすぐ深夜。
職員が出てきて、抱きかかえられるようにして連れられていくママがあたしに、ごめんなさいと言った。私は何も答えなかった。
その後、涙でぐちゃぐちゃの顔でパパの方を見た。その顔は笑っているように、見えた。
…あのときママは、赦していたのだろうか?
自分が死んだらさっさと別の女と結婚してしまうようなパパを。
それとも、あれは呪い?
笑顔が、愛が、より深くパパの心に突き刺さるように?
永久にわからない。
ママが自殺した後、パパは苦しんだ。体調を崩し休職した。娘の私から逃げるように女の家に入り浸り相手を妊娠させた。失業保険を受けながらカウンセラーにかかってるような状態でだった。
でも、ママの死を糧にして宿ったかのような新しい命は生まれることがなかった。
心労から彼女は流産したのだ。敵意しかない娘のあたしを受け入れようとして、心の弱いパパを支えようとして無理をした。
多分今でも、パパはママを忘れたい。
罪悪感に耐えられない弱い人。
そしてあたしはパパを許せないでいる。受け入れる余裕の無いガキだから。
もう若くはない二人が生まれなかった子供を悼むのを見ても、心が動かなかった。
痛みが愛を麻痺させる。
だけど、いつか何か変わるのかしら。
私の中で、何かが。
気がつくと小さな声で口ずさんでいた。さっき、カヲルと一緒に聞いた、あの歌。もう題名は忘れた、あのわからない言葉の歌。
メロディだけだけど、いつの間にか覚えていたのだ。