sanctus

廊下には全く人っ気がない。あたしはその意味を知っていた。
留学生、特に欧米人にとってクリスマスは正月のようなもの。普通なら無理してでも故郷に帰る家族行事。でなきゃ、同じ境遇の友達と街に繰り出しバカ騒ぎでもしてる。
だけどカヲルは帰らなかったのだ。友達と外にも行こうとしなかった。

本当は気づいていた。カヲルの表情には影がある。最初から、あの日、踏切ですれ違ったときから感じていた。
それはうまくいえないけれど、何か流れに背を向けた、向けざるを得なかった人間のものだ。
微笑み目を交わし合う家族、恋人達、子ども達の中にいて、同じように唇を微笑みの形に留めながらも、それはいつも擬態。その眼差しはいつも、深淵を宿している。
そんな気配を感じた。
だから――引き寄せられていたのだ。あたしの方が。

向かい合って座っていた自分の席には戻らず、どすんと音を立てるようにしてカヲルの横に座る。少し驚いたように見開かれた、その瞳を見たときだった。
体に野蛮な衝動がこみあげるのを感じた。
このまま相手に飛びかかり、引き裂いて貪り食べ尽くしてしまいたいみたいな、そんな気分。
変よね。力なんか相手の方がずっと強いのに。

「…前から思ってたんだけど、あたしあんたの顔好きよ。」

唐突で不躾な台詞。だけど相手はそんなことわかっていると言わんばかりの余裕。静かに微笑んだ。

「それはどうも。」

アルコールの勢いにまかせて、身を寄せる。安い造りの椅子がぎしりと音を立てた。
カヲルは微笑みを崩さない。顔を近づけても、身じろぎすらしない。
だから何だかたまらなくなって、そのまま、唇にキスした。
ほんの一瞬だけ触れるような軽いやつで、すぐ離れる。その後どうしようとか、考えもせず、衝動的な行為。

するとカヲルが、身を引こうとするあたしを捉えた。迷いのない動きで後頭部に手を添え、引き寄せる。そのまま唇を重ねてきた。さっきより深く、ゆっくりと交わる。
文句が出ないくらい、上手だった。

無言の時間が過ぎて、どちらからともなく微かな溜息。唇が離れると、唾液で濡れた唇に外気の冷たさを感じた。


「…雪が降り出したね。」

乱れた髪を掻き上げながら、まるで何事もなかったように、カヲルがぽつりという。
透き通った光をたたえたその瞳が窓の外、闇の向こうを見つめていた。暗い夜空の中、建物の灯りに照らされた雪がちらちらと光るのを見る。

急に寒い、と感じた。暖房は入れているはずなのに。
変な気分。凍えそう。だけど胸の中は熱い。

昔から、雪が降り出すときの湿気混じりの空気は苦手だった。
それとさっきのキスで体の芯がすっかり熱を帯びた。

「指が冷たいね。寒い?」

まるであたしの心を読んだかのように、カヲルが長い指をあたしの指に絡めてくる。それが合図であることは、すぐにわかった。
でも、これでよかったのかしら、このままこんな、あっさりと。一瞬の躊躇、唇が震えて、だけどあたしは強がりを言う。

「ねえカヲル。誰とでも、ってホント?」

カヲルは伏し目がちに、肯定も否定もせず静かに笑う。

「だったら、どうするんだい?」

「別に。こうするだけよ。」

覆い被さるようにして、再び身体を押しつけた。

カヲルがあたしを見る。至近距離で、まっすぐ視線が交わった。

「何よ、文句あるの?それとも、あんた女はダメとか?」

「まさか。」

「どっちでもいいのね。」

「うん。両方とも素敵だから………等価値なんだ。」


素敵?
どうでもいいから、じゃないの?

言葉にはせず、そのかわりにまた口づける。僕の部屋に行こうか、低い声で耳元に彼が囁いた。









カヲルがゆっくりと入ってきたとき、小さい悲鳴のような声が漏れた。慌てて口を押さえる。
つけっぱなしのラジオから調子外れのジングルベル。


心の中でつぶやいた。

聖夜なんてクソ食らえ。

きっと今ごろNYではパパがあの女と寄り添っている。時差があるから、まだ朝の光につつまれながら。


アスカ、良い子にしなさい。
良い子にしてれば神様はみていてくれるよ。

そしてカレンダーの窓が全て開いたとき、サンタが贈り物を持ってやってくる。

良い子でいれば。
良い子でいれば?


バカみたい。


いいえ、バカはあたし。
信じ込んでた。

一番だって。
わたしはパパの一番だって。

でも嘘。
あれからあたしの人生、ケチがつきっぱなし。
一番になんてなれない。誰といても、何をしても。
欲しいモノは得られない。




…それにしても、どうしてこいつといるのかしら。
一番になれないから?
自棄になった?
かもね。


でも、こいつ顔が良いもの。
つれて歩いて素敵なアクセサリーだったわ。
だから寝るの。
バイブ代わり?
そうね、そうかもしれない。

気持ちいい、と情熱的にささやいてみる。

まるっきり嘘なわけじゃないけど、演技みたいな台詞。
まるで誰かに聞かせたいみたいで、自分でもおかしくなる。
わかってるわ。みじめだけど、でもいつか言ってやりたかった。


ねえパパ、あなたの娘は遠い国で今、見知らぬ男とこんなことをしているわ。


神様はもういないの。
王子様もこない。
それはあなたが教えてくれたことなのよ。




どうも、ものすごくご無沙汰しています^^;
この連載、第一話をうpったのがちょうど二年前(2008年12月)で、時間たつの早すぎるのに目眩がしました…。そして更新もろくにないこのサイトにご訪問下さった方、どうもありがとうございます。こんどこそ、この連載を何とかしたいと思っています。がんばります。(2010/12/23)