sanctus

瞼を閉じる直前、カーテンの隙間から夜空が見えた。
彼女がシャワーを浴びる音を聞きながら、意識が夢と現実の狭間を彷徨う。

雪はもうどのくらい積もっただろう。
朝には眩しい白が待っているのだろうか。





…あれは、やはり雪の朝だった。


朝、家の前で猫が死んでいた。
薄汚れた毛並みがまだ新しい淡雪の白に覆われ、寂しく灰色に光っていた。

その日はクリスマスだった。
だけど無慈悲な姿。



そして、その猫を殺したのは僕だった。






前の晩、クリスマスのミサの後、あの人の書斎に呼ばれていた。
いい子だ。お母さんには内緒だよ。あとでクリスマスプレゼントをあげる。そう言って、洋服に手がかかる。
もう何度目か分からない退屈な地獄。

部屋に戻ると数日前から飼っていた子猫が餌を求めて啼いていた。無力な生き物。その無力さに吐き気がして、ふと魔が差した。
コートも着ないで、寒い戸外に連れ出した。そのまま、力任せに地面にたたきつけて、置き去りにした。

もともと、さして仲の良いわけでもない級友のうちで生まれた子猫だった。処分に困っていたのをもらってきた。家では飼うなと言われていたのに。
白い小さな猫だった。弱い優しい生き物。愛してあげたいと思ったはずだったけど、出来なかった。

一晩明けて、あれは全て夢ではなかったと、屍の前に立ちつくす。
気温は零下。でも、足先や指先に感覚がなくなっても動けなくて、僕は思った。


(神様、神様、あなたはいないのですね。)
(少なくとも僕にとっては、一度だって、あなたは、)

(でも、ならば、僕はどこに行けばいいのでしょう。)
(何をすればいいのでしょう。)


一番願っていたのは消滅。
あの男か、僕自身か、または世界の。
だけど願いが聞き届けられるわけもなく、世界はいつまでも醜く目の前にあり、僕は無力だった。
そして衝動のまま関係のない小動物を巻き添えにした。


(………どうすれば救われるのでしょう。)


涙も出なかった。
振り返ると、朝焼けの空に黒い影。立ちはだかるように、煉瓦造りの平凡な郊外住宅。だけど緩慢に定期的に僕を殺し続ける、刑場。

(罪人の家、折り重なった悪夢。)
(連鎖する罪。大きいものからより小さきものへ。)
(哀しみはいつか止まるのだろうか。)
(怒りはいつか、消えるのだろうか。)
(どうやって、いつ。)



それは聖なる夜の贈り物だった。

そして一生残る悔恨の、象徴。


――――そう、思っていた。




…だけど、不思議だ。今、こうして他人の気配を感じながら思い出して、あることに気づく。

あの猫の姿。

委ねていたね。
静かに小さく、冷たくなっていた。
まるで世界の全てを……受け入れるかのように。

神を無くした僕の前に、最後に現れた使者のように。



君は、ホワイトクリスマスが嫌いだと言った。

……雪の中で何を見たんだい?


僕はいつも、思い出すよ。
この遠い国まで来ても、雪が降るたびに、繰り返し繰り返しあの冬の朝のことを。

うずくまる猫の姿、消えない罪の証。
絶望だと思った。


だけど今思うと、遠い記憶の中のそれは、まるで祭壇のようだ。

キリストは人々の罪を背負い磔になった。
自らを殺そうとする人間を愛し、死に至りながら、神に人々の祝福を乞うた。
その姿に、人々は己の罪深さを知った。

それと同じように、きっと――――あれは僕の教会だった。
あの小さな猫が、僕のキリストだったような気がするのだ。

ただし猫は僕を許したりなどしない。キリストのように僕を愛することもない。
愛も憎しみもない、ただ、無関心。
きっと己の身に起きたことすら理解していなかった。だからそれは神の許しも導かず、天上からの救いは、僕には来ない。

人知れずいつまでも、僕は罪深くありつづけるだろう。
裁く神も、救う神もいないからだ。


でもそれでいい。


あの猫だけがその身をもって、いつまでも指し示してくれる。僕が生きてきたこと。その犯した罪、全てを。

こうして罪を知った僕は、きっと立ち止まることが出来るだろう。
断ち切ることが出来るだろう。なにかの、連鎖を。

僕を苦しめたあの人が解らなかったことが、きっと僕にはわかる。
あの人には見えなかった何かが――――僕には見えているのだから。


翌年母が死んで、僕は故郷を離れた。離れることが出来た。
離れることで、かろうじて赦すことが出来た。受け入れることが出来た。
あの忌まわしい人が生き、呼吸しているこの世界と、罪深い己自身のことを。

以来、一度も帰っていない。


今はまだこうして一人、見知らぬ人の間を彷徨っている。危うい道。
だけど、その中でも、時折こうして思いがけないぬくもりに触れる事がある。新しい何かに気づくことがある。

確かに人は、一人では生きていけないが、孤独を感じながらも生きていくことは出来る。

むしろ孤独ゆえに、人とつながり、何かを分け与えることすら――――出来るのではないだろうか。

それはきっと、そんなに悪いことではない。そう思いたい。


信じて、生きてる。
一つの決意のように、自分に言い聞かせながら、

今日も。









タオル一枚だけ身にまとい、ぼんやりとベッドのふちに腰掛ける。湯上がりの上気した肌が冷めていく。
カヲルは本当に寝入ってしまったようだ。スタンドの明かりを付けたが目を開かない。規則正しい呼吸音が聞こえる。

「あんた、体力ないわねほんと…」

裸になり寝台に滑り込む。
左手をそっと伸ばし指を絡めると、無意識のまま身じろぎし、唇が微かに動くのを見た。
今頃何を夢見ているのだろう。

今は何時かしら。自分の携帯を取り出して思い出す。夕食のときから電源を切ったままだったことに。

ふと、つぶやきが口をついて漏れる。

言うはずの無かった言葉。

「…あのね、明日、赤ちゃんが生まれるの。うちの父に。」

さっき受け取ったメールで知った。ちょうど予定日きっかりに始まった陣痛。
病院に行くから今晩から明日にかけては家にいないが、お前が良いクリスマスを迎えるように祈っている、と短い言葉が添えてあった。
もう生まれている頃かもしれない。

「あたし、お姉さんになるのよ。この年で。ま、実感無いけどね。」

だからパパが日本になんて来るわけない。
年老いた父親の恐らくは最後の子供。
あの女の人にとっては、生まれなかった子供のあと、最初の。

そしてあたしも今年、絶対帰りたくなかった。
だって顔を見たらきっと、憎んでしまうから。
続報も知りたいと思えずに、さっき携帯の電源を切った。


「クリスマスが予定日なんて、笑っちゃうわよね。まるで…」


すると突然、眠っていたはずの瞳が、開いた。

「まるで、贈り物みたいだね。」

心臓が跳ねる。声が、うわずった。

「…やだ、性格悪い。起きていたの?」

「夢を見てた。そしたら、声が聞こえてきた。最初は誰だか分からなくて……目を開けたら君だった。」

まっすぐにあたしを見つめて、静かに微笑む。

「ねえ、クリスマスの朝に、思いがけない贈り物をもらうことって、あるよ。」

「……………。」

「一見、全然嬉しくなかったり、嫌で恐ろしかったりするものかもしれない。もしくは、誰かの罪の証だったりするのかもしれない。」

「でも後になってわかるんだ。それが何だったのか。」

そっと白い腕が持ち上がり、あたしの方に伸びる。朧気な灯りに、かすかだけど陰影を作る古い傷の隆起。

「僕には既にそれが訪れた。君とはだいぶ違うものだけど、それでも、確かに受け取った。」

「…誰から?」

声が震えた。
カヲルはうつぶせたまま、人差し指をすっと立てて天井を指さした。
天井――天上。

そのまま、僕が何を言ってるのかと思うだろうね、と枕に片方の頬を埋めたまま、目を細めて笑う。

「あんた馬鹿?」

だけど何故かしら。そのとき、一つのメッセージを受け取ったような気がした。


(………………………赦せって、こと?)



「僕は何も知らない。それが君にとって幸いであるのか、否かも。」

「でもいずれにせよ新しい命だ。終わりじゃなくて、始まるんだ。何かが。」

視界の中、スタンドの灯りが滲んだ輝きを作る。

「だから、通りすがりの僕から、心からの祝福を、」

言葉にならなくて、


「――おめでとう。」



涙が、溢れた。



(完)




【作者後記】
やっと、完結です。四年目の正直。一話を書いたときからこんなに時間がたってしまうとは夢にも思いませんでした。
あの頃は新劇の序かなんかをみたあとで、まだ実家に住んでいました。こないだQをみて、今は別の県に住んでいます。
そして人生でも四年間、本当にいろいろなことがありました。作品にあまり私生活が反映するのもどうかと思うんですが、この話もかなりその影響を受けたところはあります。でも、大筋は変わっていないです。

それにしても何だかこれでいいのか?という感じの二人だけど、私の頭から出てくるのはどうもこういう話になってしまう。この話のカヲルは達観しているようだけど、実はアスカより危ういです。長生きはしないかもしれない。でも、そういう人間の方が期間限定で強烈な光を放ったり、人を導いたりするのかもしれません。
そんなことを考える私も色々と業の深い人間です。その辺もふくめて、とりあえず書き上げてしまいたかったのでした。

読んでくださった方、おられたら本当にどうもありがとうございます。
(2012/12/12)