sanctus

しかしカヲルの言葉に反して、静まりかえった寮には見事に人気がなかった。一人だけすれ違ったカヲルの友人らしきアジア系の留学生は実験で今日は泊まり込みだと笑って誘いを断り、去っていった。

「昨日までは結構人がいたんだけどね。みんな日本式にお祝いしてるか、または実験かな。」
カヲルが苦笑した。

あたしの背筋に先程の緊張が戻ってくる。
このままこいつの個室で二人きりになるんだったら、やっぱり帰ろうかしらと考え始めていた。するとカヲルはそのまま共用の台所らしき場所にすたすたと入っていく。そして買い込んだ材料をどさりと備え付けのテーブルに置いた。

「ここでとりあえず始めようか?料理を作って飲んで、誰か側に人が通りかかったら誘っても楽しいよね。」
「…そ、そうね。」
「あ、いいよ。座ってて。今日はお客さんだから。」

屈託のない笑顔と、フレンドリーとしかいいようのない提案に帰るタイミングを失う。
向こうは誰もいないのをいいことにCDプレイヤーまで持ち込んで音楽をかけながら、支度を始め出した。

あたしは手持ちぶさたに座りながら、とりあえず薦められたビール缶を空ける。
目の前では彼がシャツをまくり時計を外した。その瞬間、左腕の手首にあたしの視線は思わず吸い寄せられる。
手首の周りに、微かだけど、無数の不規則な傷跡。

「…ああ、これ?びっくりさせてしまったかな。」
「……。」
「昔の傷なんだ。気になるならば隠すけど。」
「ううん、ごめんなさい。つい…」
「別に謝らなくて良いよ。一時期だいぶ精神的に参っていた時期があってね。もう何年も前のことだけど。」

あたしは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
だが、カヲルは気に留めた様子もない。そのままサラダ菜を取り出しながら、後ろのCDプレイヤーから美しいメロディーが流れ出したのに合わせて口ずさんだ。


Sanctus,
sanctus sanctus
Dominus Deus Sabbatho,


「…ラテン語?」


Pleni sunt coeli et terra Gloria....


うん、とカヲル。

「昔、ちょっとだけ教会で歌ってたんだ。子供の頃。でも、今のメロディーは現代版だけどね。モーツァルトやグレゴリオ聖歌じゃないよ。」

「そもそも歌自体知らないから解らないわ。母は、その、宗教を持たなかったし。」

父は違ったのだけど。

「僕もクリスチャンではないよ。子供の頃は両親に連れられて教会に行ったけど、今は…」

「違うわけ?」

「うん。僕に宗教はない。自分で選択した。」

いやにきっぱりとした響きがあった――気がした。

「…そうなんだ。」

「でも、音楽は内なる信仰とはまた別の次元のものだから、つい懐かしくてね。口ずさんでしまう。」

「歌詞の意味は、知ってるの?」

「うん。ええと…聖なる宇宙の創造主よ、天と地はあなたの栄光により覆われています…かな。」

ふと、携帯のメールの着信音が聞こえた気がした。あたしはハンドバックから取り出してディスプレイを見る。英語のメール。父からだった。一瞥して電源を切る。
傍らではカヲルが楽しげに、鼻歌を歌いながら、総菜のローストチキンをオーブンレンジにセットした。


予定通り、ものの三十分もたたないうちにディナーらしきものは出来上がった。
ローストチキンに温野菜のサラダ、そしてカヲルがもらったというフォアグラの缶詰とシャンパン。CDプレイヤーからは穏やかな優しい音楽が流れている。ついでに、と部屋まで戻っていったかと思うと、三つか四つの小さなキャンドルを持ってきた。雑貨屋で売ってるごく普通の白いやつだ。台所の灯りを消し、廊下の照明だけにして火をともすと雰囲気が出る。

「何はりきっちゃってんのよ、全く…」

呆れた顔をしては見せたが、ロマンチックすぎず、ジャンクすぎず、とはいえ肩肘張らず、学生らしく、即興でささやかな宴を演出してみせるセンスは悪くない。

「ふふ、どうせやるならとことんまでやらなきゃね。」

食事を食べ出すとお互い少し無口になった。お腹がすいていたのだ。
少しすると、音楽だけが流れ静寂が支配するのに気詰まりを覚えたのか、いかにも会話をするためだけといった話題をカヲルがふってきた。

「そういえば今夜は、雪が降るかも知れないらしいよ。天気予報で言っていた。」

「…そう。」

カヲルの用意したサラダは美味しかったけれど、出来合いのローストチキンの総菜は少し味が濃い、と感じていたときだった。

「クリスマスに雪が降るのは、日本では珍しいらしいね。」

「そうね。」

「つもるといいね。」

「…そうかしら。ホワイトクリスマスなんて嫌いよ。」

しつこい味のソースが絡んだチキンの肉を水で喉に流し込みながら、思いの外、尖った声が出てしまった。

「そんなに、嫌いなのかい?」

目線を上げると、視界の中あたしを静かに見つめる眼差しとかちあった。深い赤を帯びた虹彩に、キャンドルの光が映り込みゆらゆらゆれている。

「どうして?」

何故かしらね。
あたしとしたことが、こんなのって…変なのだけども。
ほんの一瞬だけ、ふうっと、底知れぬ淵に落ちていくような、吸い込まれるような感覚につつまれた。
同時に、身体と心を押さえつけていた何かが一瞬、ふわりと重さを失ったような奇妙な感じ。
シャンパンのアルコールも効いていたのだと思う。

そして気づくと、あたしはそれを口にしてしまっていた。

「……クリスマスが嫌いなの。」

「そうだろうと思った。」

「……。」

心臓がどきどきしている。

「理由を聞いても…いいかな?」

「うちのパパね、再婚したの。去年。」

どうしてあたし、こんなこと話しているのかしら。

「…だから嫌なのかい。」

「違うわ。」

沈黙が数秒続いた。

「一昨年にね、まだ…ママとパパがいたの。家族そろってて…でも、」

思い出す。雪が、降ってたあの日。


「最悪のクリスマスだった。」

「…何か、あったのかい。」


あたしはそこで一旦口をつぐんだ。だけどカヲルは黙って見ている。じっと私を見つめている。視線を逸らさない。瞳の虹彩になんて深い――赤。
何かが堰を切って、溢れた。それは言葉。

誰にも話したことがない、知って欲しいとも思わなかった、遠い場所の遠い日の出来事――


「ずっと前から、ママ、精神病院に入院してたの。調子が悪くて…。でもその日だけはクリスマスだから家族の元にって一時退院してたのよ。少し具合が良くなってたし。」

「夕食を食べようとしたときだったわ。電話が鳴ったの。パパは誰とは言わなかったけど、受話器から女の声が聞こえてきた。」

「それからはもう滅茶苦茶。ママの調子が一気に悪化して…」

「もうずっと前から浮気してたのよ。でもその時の電話の人は違うって今でも言うんだけど。だけどきっかけはそれで充分だった。結局クリスマスは中止。…おさまらなくて、パパが無理矢理押さえつけて車で病院まで送っていったの。」

「ニューヨークはその日雪が降ってたわ。気温も日本なんかよりずっと低いから、雪がその後も残ってた。」

「…もう、何年も前のことだけどね。」


雪に埋もれ消えてしまえばいいと思っていた、のろわしい時間の記憶。


母はその三ヶ月後に死んだ。病院の職員が目を離した隙に、首をつったのだ。
雪が解け、木々が芽吹き光が満ちていく春と自らの命を引き替えにするように。



それからずっと、クリスマスは来ない気がする。

パパが再婚したのはママが死んだ一年後だった。そのときの恋人が私の義理の母になったのだ。
一度だけ、パパは私の目を見ずに言った。お父さんは弱い人間なんだ。あたしは答えなかった。
その後もずっとあたし達はまともに会話を交わせないまま、日本とアメリカに別れて住んでいる。

一度パパだけでも日本に来てくれたら嬉しいわ、そういったのは、無理を承知でした意地悪。

特に今年は――ある理由から、絶対に来られるわけなかった。
なのにわざと提案した。
ねえ、12月25日に日本に来てよ。絶対に来て。今年はこなきゃだめなんだから。
パパは絶句してた。そして狼狽した声のまま、それは無理だ、と言った。あたしは電話を切った。


「…君にこんな質問をしたのは、僕もクリスマスにはさほどいい思い出がないからだよ。」

「何かあったの。」

カヲルは答えず、視線を逸らして薄く微笑んだ。伏し目がちな瞳、睫の陰が白い肌、目のふちに落ちている。
誰が見ても言うだろう。整った顔だと。

風の噂に聞いた話を脈絡もなく、ふと思い出す。

カヲルはバイで男にも女にも見境無い。しかも相手は同年代とかじゃなくて、暇を見つけては中年男に掘らせてる。そんな話。
ちょっと前にカヲルと付き合おうとしてトラブった女の子が言いふらしたことだから、多分色々あることないこと付け加わった噂に違いない。

でも何だか…


視界がちらちらした。
上半身を起こしたらぐらっと軽く世界が回る。

ああ、酔ってるんだわ。シャンパンが回ってる。水を飲むためのコップを取ろうと立ち上がったとき、バランスを崩し、がたりと椅子が音を立てた。

「危ない。」


カヲルが支えて、その手があたしの背中に触れた。そのときだ。身体に何かが走った。

そして気づいてしまう。
さっきから散々、その手にはひっかからないと、相手の下心に無駄な警戒をしてたくせに、先にその気になったのは――あたしだということに。