天体観測

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8.思い出

夕食の後軽く風呂に入り一休みした後、天体観測を始めた。

「やっぱり天の川がよく見えるなあ…。」

カヲルの祖母の家が少し街から離れた山がちな場所にあるため、4、5分歩くだけで灯りが気にならない場所に出られるのだ。
虫除けスプレーの匂い。望遠鏡を設置しシートに座り込んで懐中電灯で星図を見て、ここならばこれもよく見えるかもと目星をつけていた対象を試していく。カヲルも一緒になって星図を覗き込んだり望遠鏡をいじったりしながら小一時間ほど過ぎただろうか。そういえば、とカヲルが思い出したように言った。

「宇宙には僕たちの目では見えない天体もたくさん有るのだよね?単に遠いからというだけでなく、目で見える光を発さない天体…」

「そうだね。例えば白色矮星とかパーサーとか…強いX線を出すけれど暗くて全然よく見えない天体は色々あるよ。」

「そういうのはどうやって観測するんだい?」

「可視光線、つまり目で見える光以外の手がかりを拾うんだ。赤外線とか、X線とかガンマ線とかガスとか…。で、それを観測してそこにあるなってわかるみたい。」

「それはつまり、X線だとかを感知する別の観測機器を使うわけだね。それの記録から規模やら位置を割り出すという…。」

「うん。X線の場合、特別な観測機器を人工衛星に積んで飛ばすんだって聞いたことがある。X線は殆どが大気に吸収されちゃって、地球までは届かないから。大気圏外に上げないといけないんだって。…本で読んだだけだから詳しいことは知らないんだけど。」

「へえ、すごいね。あの手この手で手がかりを探すわけだ。見えないものを見つけるために。」

「うん。すごいよほんと。大変だと思う。」

「それでも見える見込みが確実にあるというのはいいね。」

「え…ああ。」

「答えが見つかる事を期待出来る。」

言葉の調子に少しひっかかったが何故だか自分ではわからず、そうだね、とシンジは短く相づちを打った。

ふと、沈黙があたりを支配した。木々を渡る夜風の微かな音。
シンジは何かを言わなければならないような気分になった。

「…その…本当に今回は、どうもありがとう。」

「どういたしまして。礼には及ばないよ。」

「いや…及ぶよ。だって、いきなりだったし…。迷惑だったでしょう。家にまで泊めてもらって。」

「そんなことはないよ。確かに、少しびっくりはしたけれど。でも、」

カヲルが柔らかい口調で続ける。

「この間会ったとき、もう少しゆっくり話せれば良かったなと思ったんだ。だから思いがけない機会が出来て…嬉しかったよ。」

「え、そ、そうなんだ。」

予想外の言葉にきっと耳まで真っ赤になっている違いなくて、月明かりしかないような場所で良かった、とシンジは思った。

「でも、話って…何を?」

変な期待をしそうになる自分をいさめながら、訊いてみる。すると、相手の反応はこれまた予想外のものだった。

「実を言うと…少し前から、何となく僕は君がゲイか、またはバイなんじゃないかと思っていたんだ。」

「え?」

「もちろん根拠の無い直感さ。でも、場合にもよるけど…けっこうそういうのって当たる気がしないか?君の場合はどう?」

「…さあ。周りに誰も居なかったから…」

でもそのとき、不意にシンジは思い出した。そういえば最初に彼を見たとき、ある種独特なムードがあるような気がしたのを。あれがそういうことだったのかな。

「同じような友だちや知り合いはいないのかい?」

「…いない。」

「学校の外やネット上でも?」

誰もいないよ、とシンジは頭を振った。そう、とカヲルの声に深い響きが籠り、数秒の間があいた。

意を決してシンジは口を開く。

「あの…こないだは、変なタイミングに、変なことを言って…ごめん。好き…とか。」

「こないだ?…ああ。どうして謝るんだい。」

カヲルの瞳が透明な光を宿して、シンジを見る。

「好意を持ってもらえたのは、嬉しかったよ。」

「……。」

「それに、友だちとして君の事をもう少し知る機会があれば良かったな、とその時思った。特に、僕たちは…多少なりとも共通点があるわけだし。」

共通点、という言葉が同性愛傾向のことをさしているらしいことにシンジは気づく。どうやらカヲルは少なくとも自分との間にある種の連帯感を感じているらしかった。

「カヲルくんも…その…男の人を好きになったことがあるんだよね。」

「うん。」

「付き合ったりとかも…した?」

カヲルは膝の上に組んだ腕に顔を埋めながら、ふと遠い場所を見るような眼差しをした。

「ドイツに居た頃…」

「…どんな人?」

急に胸が苦しくなり、間髪を入れずシンジは質問を重ねる。

「……日本人で、音楽家だった。」

「え、社会人?そんなに年上の人なんだ。」

急に目の前のカヲルが遠く見えた。シンジの反応に苦笑に似た表情を浮かべてカヲルが目を伏せる。

「僕は多分、君が思っているような人間じゃないよ。」

「別に…僕は何も…。」

気まずくなって話題を変えようとしたけど、見知らぬ人と寄り添うカヲルの姿がちらつき何だか胸が熱くて痛かった。あ、ひょっとしてこれ嫉妬かなと自覚する。しかもドイツ、これからカヲルが戻る場所の話。だから、つい質問が口をついて出た。

「その人、今でもドイツにいるの?」

「もういないよ。」

「あ…そう。」

一瞬ほっとした自分を後ろめたく感じ、それを隠すように、プロの音楽家ってのも忙しそうだねなどとどうでもいいことを言った。すると、少し間を置いてカヲルの声が答えたのだった。

「いや、そうじゃなくてもうどこにもいないんだ。」

「…えっ。」

「飛行機事故にあったんだ。演奏旅行に行くときに。もう2年近く経つかな。」

「…ごめん。変な質問して。」

後悔にシンジはうなだれた。ふ、とカヲルが目を伏せて微笑む。月明かりに頬が白い。

「どうして。別に君が謝る事じゃないよ。」

そして、でも、と思い出したような声でカヲルはぽつりとつぶやいた。その人の存在が日本に行きたいと思わせたのは事実だと。

「丁度その事件があった後、学内で日本との交換留学の話を見たんだ。すぐに応募した。」

「そうなんだ。色々…あったんだね。」
シンジは他にどういっていいか解らなかった。

「まあ…過去の話だよ。日本に来て、ここでは本当に静かに暮らしていた。ごく普通の高校生として友人を作って…思いがけず彼女まで出来たりもして。」

「…綺麗な人だったよね。」

ふと面影が蘇って、シンジは意地悪ともつかないコメントを返してみた。

「…うん。僕には勿体ないような子だったよ。いい思い出になってる。」

遠い日を振り返るような声に、シンジははっとした。
つい数日前まで二人並んでいるところを見たのに、もうカヲルの中ではまるで何年も経っているような、そういう響きがあった。
いや、そもそも東京のあの高校で過ごした日々自体既に彼にとってセピア色を帯び始めているのかもしれなかった。
まるで一つの過ぎ去った季節を懐かしく思い返すときのように。
そして間もなく自分もその「過去」の風景、ちょっと変わったエピソードとして処理されてしまうのだ。

そう考えたとき、シンジの中で何かが痛んだ。

「もう、彼女のことも『思い出』なんだね。」

ぽつりと聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。

「え?ごめん、よく聞こえなかったよ。」

カヲルが少し「天然」と呼ばれるのは肝心なときにこういうとぼけた声を出せるところだ、とシンジは思った。
カヲルの過去の話に何となく衝撃を受けたのと、やっぱり自分の感情の整理がついていないのとで息苦しいような気持ちが胸に満ちていく。

夜風が吹き抜けた。星が暗い夜空を埋め尽くしている。
彼の方にゆっくりと向き直った。
月明かりがカヲルの淡い色の髪と肌に銀色の朧げな輝きを生んでいる。
全てが非現実的なほど美しくて夢の中に居るみたいに感じた。
痛みを伴った恍惚感が押し寄せる。このまま時が止まればと思った。

「シンジくん?」

「…あのさ、」

胸が痛くて、さっき見た写真を不意に思い出した。自分の知らない場所で知らない過去を持つカヲル。今、手を伸ばせば届くそこに居るのに、もうすぐ遠い場所にいってしまう人――――

「ここ来たときは全然そのつもりじゃなかったんだ。でも、何だか気が変わった。」

「え?」

やめろよ、何を言おうとしてるんだ。頭のどこかで冷静な声がした。でも、止まらない。

「やっぱり、思い出が欲しいんだ。」

「…どういうことだい。」

「それは、」

膝を抱えて座っているカヲルの組まれた腕をそっと触り、そのまま手を握る。

「こういうこと…だよ。」

緊張に唇が震えた。自分の手が冷たく汗ばんでいるのも気になった。それでも少し握る力を込めた。

一瞬、間が空いて、

「僕と……ってことかい。」

いつもながらの飄々としたカヲルの声が少し低くなった。うなずいてシンジは言った。

「一度だけで…遊びでいいんだ。」

捨て身だった。

「僕なんかで…いやじゃなければ、だけど…。」

カヲルが目を細め、じっとシンジを探るように見つめる。腑に落ちないという顔をした。

「けっこう刹那主義的なことを言うんだね。…意外だな。」

「意外…かな。」

「まあ…率直に言ってあまりそういうことに慣れているように見えなかったから。」

「慣れてるわけじゃ…ないけど…」

なんて言ったらいいんだろう、シンジは説明しかねて口ごもる。恋愛の経験なんて殆どない、だけど知ってしまっていることがある、この感じ。迷って、言葉を見つけた。

「…割り切り方ならわかってると思う。だから迷惑はかけないよ。」

するとカヲルはぽつりと奇妙な事をつぶやくのだった。

「……ときどきそういう瞳をするね。」

「え、そういう、って?」

シンジが面食らうと、カヲルは、ごめん、何でもないと静かに笑い目を伏せた。そして唐突な台詞。

「僕は君がとても魅力的だと思うよ。惹きつけられる。」

「えっ、」
シンジは固まる。戸惑って頬が熱くなる。

「でも、こないだ会ったときわかった。それにも関わらず、君は自分に本当に自信がない人なんだなって。正直驚いた。どうしてだろうと思って、ずっと気になっていた。」

そんなことを言われるのは生まれて初めてで、幸福感がこみ上げた。どういう意味だろう?何も言えずに黙ってカヲルを見つめていると再び目が合う。カヲルが微笑みシンジの手を握り返した。

「とりあえず、家に戻ろうか。」


続く
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