天体観測
7.ピアノ
カヲルはシンジを最寄り駅まで迎えにきてくれた。
やあ、とまるで昔からの友だちを迎えるような笑顔を見たとき、何だかちょっと泣きたいような気分にさえなった。
いい意味で、何事も無かったように自分を迎えてくれるカヲルの心遣いがありがたかった。
小さな湖のある山間の盆地、別荘の並ぶ地域からもさほど遠くないところにカヲルの母の実家があった。古い日本家屋を適度に改造して済みやすくした居心地の良さそうな二世帯住宅。しかし現在は祖父を亡くしたカヲルの祖母が一人で住んでいるだけだと言う。
「母も月末にはドイツから合流するつもりらしいんだけど、それまでは僕と祖母の二人だけなんだ。だから、来客が有ると家がにぎやかになって嬉しいよ。」
東京とは湿度の違うさわやかな風が吹き抜けていく。屈託なく近況などを語るカヲルに相づちを打ちながらシンジは、まるで学校のあった日々を遠い昔の事のように感じていた。
カヲルの祖母に挨拶して昼ご飯をご馳走になり、午後は彼と観光めいた散歩に出かけた。なだらかな起伏のある、山に囲まれた土地。白樺の林に囲まれたペンションが有るかと思えば、昔からあるような日本家屋もちらりほらりと見える。
「碇くんは、甘いものは大丈夫かい?」
少し開けた牧場のような場所に来たときカヲルが振り向いて言った。ふと見ると、目の前に「名物」「アイスクリーム」の看板があり若干の行列ができている。
「あ…うん。」
「ここのアイスが美味しいんだ。地元で取れた新鮮な牛乳を使っていて…。前世紀の80年代バブルのときに出来た店なんだけど他が廃れてもこれだけは残ってる。そういえば、今のオーナーはフランスのパティシエのもとで修行した経験があって、アイスだけじゃなくて洋菓子全般にも造形が深いらしい。」
「ふうん。渚くん、色々詳しそうだね。」
「まあ、母が食通で…あ、カヲルでいいよ。名前。」
カヲルからコーンに入ったアイスクリーム受け取るときちょっとだけ指が触れた。
「うん、カヲル…くん。」
頬が熱くなって、多分今顔が赤くなってるなと思いきまりが悪くなる。
「じゃ…僕の事も、シンジって呼んでくれれば。」
小さい声で言ったらカヲルが微笑んだ。
「そうだね、シンジくん。」
陽光に灼かれながら、アイスは甘く冷たく舌に溶けた。
*
最初の日は夜になるとどっと疲れが出て、シンジは星を見るどころでなく早めに眠ってしまった。
次の日の日中も色々動き回ってクタクタに疲れてカヲルの実家に戻り、少し長めの昼寝をして目が覚めたら夕暮れが近かった。
まだ眠りの余韻が残る頭で二階の客室から出て階段を降りる。顔を洗いに洗面所にいこうとしたそのとき、ふと響いた音に聞き耳を立てた。
(…ピアノ?)
音楽…というよりは片手で気まぐれにつまびいているような音。そういえば、居間に古そうなピアノがあった。
ド、レ、ミ、全く適当に、やる気の無い感じで規則性も無く思い出したようにバラバラな音が聞こえている。そして一瞬静かになった。
だが次に聞こえてきたのは、やはり単音だがはっきりとした意味のある旋律だった。
(あ…第九)
最初は素朴に片手だけでメロディーが奏でられる。だが区切りのいいところまで来たとき伴奏が入った。最初は少し頼りなく確かめるように、ゆっくりと。しかしだんだんと勢いがつきよどみなく流れるように音が広がっていく。少しずつ情感がこもり、溢れ、空間を満たして行く。
廊下に立ったまま一人シンジは聞き惚れた。
(へえ…結構うまいや。どっちだろう。カヲルくんか、お祖母さんか…)
そろそろと居間に近づくとドアが半分開いたままになっていて、ピアノに向かうカヲルの後ろ姿が見えた。
余韻を残し音が消えていったときシンジは思わず拍手した。
はっと夢から覚めたような顔をしてカヲルが振り返る。だがほんの一瞬、狼狽にも似た少し居心地の悪そうな笑顔が浮かんだのをシンジは見た。
「上手なんだね。」
「…いや、もう随分忘れてしまったよ。ごめん、起こしてしまったかな。弾く気はなかったんだけど…気まぐれが起きた。」
「いや、もう起きてたよ。」
聞かれたくなかったんだろうか?でも一つ屋根の下でそんなはずないよな、ふと気になったが、次のカヲルの台詞にそんな疑問は吹き飛んだ。
「そうそう、今夜は祖母が居ないんだ。だから僕たちだけで夕食を何とかしなければならない。」
「え…。」
「隣の市に住む叔母夫婦が今夜結婚記念日だとかでコンサートにいくらしいんだ。それで祖母がベビーシッターを頼まれて…ついでに孫の顔も見がてら泊まってくる予定らしい。急にさっき決まったんだよ。何でも頼んでいた人が来られなくなったらしいんだ。」
「じゃあ、今夜はいらっしゃらないという…。」
「うん。明日の朝には戻ってくるみたいだけど、シンジくんとは入れ違いになるかも知れないね。もしそうなった場合はよろしく伝えてと言っていたよ。」
「そうか。明日御挨拶出来るといいけれど…泊めて頂いたわけだし。」
努めて平静を装ったが動悸は収まらない。つまり今夜はカヲルと二人きりということになってしまったのだ。
カヲルは一体どういう気分だろうと思ったが、一見いつもの穏やかさを崩さず別に動じている様子も無い。じゃあもう少ししたら夕飯作ろう、その前にちょっとメールチェックしてくる、と軽やかな足取りで自室へ戻ってしまった。
一人居間に残されてシンジは、恋する者の常でカヲルのことをあれこれ考える。答えは出ないとわかっていても疑問が空回りして止まらない。
そもそも最初泊めてくれると言ったあたりから不思議だったのだが、一度振ったら友だちと割り切ってしまえるもんなのだろうか?それとも多少は何か期待していいということなのか…。
(いや、それとも…)
更に第三の可能性を考える。そんなことにすぐ思い至る程度にはシンジも充分擦れていた。
(…付き合う気はないけど、セフレならありとか、それは無理でも一回くらいしちゃってもいいやとか…)
好奇心から読んだ小説や映画、あとネットで収集した話で知る限り、ゲイやバイにはかなりドライで奔放な性生活を公然と送るものが多いような印象があった。だけどシンジには経験が乏しいからカヲルがどういうタイプの人間なのか全く掴めない。距離の取り方もわからない。
また、戸惑いはもう一つあった。
背が高く肩幅も広いがどこか優しげで中性的なカヲルといると、果たして警戒した方がいいのは自分なのかカヲルなのか、それすらも不明な気分になってくるのだ。下心を持っているのはシンジだが気持ちが無い分相手を弄べる位置にいるのはカヲルだ。
そう考えたとき、ふと、カヲルにならむしろ遊ばれてみたいかもという気がした。だってもともと失うものなんて何も無い。
両思いになるなんていう望みは最初から一度だって持った事が無かったのだから。
彼に自分の身体を「消費」されるのならそれはそれでいいような気がした。もともと赤の他人にくれてやったくらいなのだから―――――
(…やめよう、何を考えているんだ僕。)
少し自分が嫌になってため息をついた。側のソファーに座り込む。だが、膝に肘をついて頭を抱えたとき、視界の端、ソファーの下に落ちている何かがはみ出して見えた。何気なく指で引っ張りだしてみると、それは一枚の写真だった。
拾って埃を指で払う。側を見るとアルバムらしきものが押し込まれた棚があった。ここから偶然落ちたのかと思い何気なく表を見てどきりとした。
(うわ、カヲルくん…だよね?これ。)
日付は今から7年前。カヲルの家族から祖母へと送られた写真なのだろう。画面の中、日付の横に「ピアノの発表会」と小さいフォントで説明が入っていた。場所はドイツらしく、銀色に光るアッシュトーンの髪をした子供が大人二人と微笑んでいる。天使のようなという形容詞が一瞬浮かびかけたほど、あどけなさの残る端正な顔立ちに性別を超えた透明な美しさが宿っていた。しかもカヲルは水兵服のようなデザインの礼装を身にまとっており、その全身を濃紺に包まれたストイックな装いが乳白色の肌に映えて一種倒錯的な美さえ醸し出していた。
(かわいい…というか、ほんっとに綺麗な子だったんだなあ…。)
素直に感心しながらシンジはカヲルに寄り添う二人の男女に視線を転じる。カヲルの両親だろうと思いこんでよく見たら少し違うようだった。
カヲルに似た、しかし明らかにずっと東洋人らしい顔をした中年の女性が母親なのはすぐわかった。だが男の方はカヲルの父にしては若くしかもやはり東洋人でカヲルに全然似ていない。カヲルの父なら欧州系ドイツ人のはずだ。男は中年というには若々しく青年というには少しくたびれた気配で、中途半端に伸びた黒い髪を首筋にたらしスーツには不似合いな無精髭をはやしている。明らかに会社勤めではなく自由業といった風情だ。例えば芸術家。甘さの中にも苦みのあるなかなかいい男で、カヲルの肩に手を置き微笑んでいた。
たったそれだけなのに、シンジは何故か男が気にかかりその表情をじっと見つめた。理由はわからなかった。ただ、何か奇妙な感じがしたのだった.
だがそのとき、廊下を通るカヲルの足音が聞こえてきてシンジははっと我に返った。
*
台所を覗き込んだら、いつのまにか材料が並べられカヲルが本格的にエプロンまでつけて流しの前に立っていたので驚いた。
二人だけでどうにかすると聞いて適当にインスタントかレトルト食品でも暖めるくらいに考えていたのだ。慌てて、何か手伝うよと言った。
「ありがとう。じゃあ、ジャガイモの皮むきでも手伝ってくれるかい。」
「うわ、結構沢山作るんだね。カレー?」
シンジは包丁をとって皮を剥き始める。
「うん。多めに作って保存しておくのもいいなと思ったんだ。いつも祖母に食事を作ってもらってばかりだから。」
そのとき不意にカヲルの視線がシンジの手元に止まり少し驚いたような声を出した。
「君、包丁使うのうまいね。」
シンジは明らかにカヲルの倍近い早さで包丁を操っていたのだ。カヲルもこの年の少年としては決して下手というわけではないが、毎日この種の作業をしている人間の手つきからは遠かった。
「え、ああ…中学のときから、結構よく自炊してたから。」
「ご両親は?」
「うち母親いないんだ。父さんはいつも仕事で遅かったり留守だったりするんで基本的に自分の食事は自分でって感じ。外食もするけどね。」
「そうか…。えらいね。」
カヲルがしんみりした口調で自分をじっと見たのでどぎまぎして目を反らす。そのときカヲルの白く長い指が視界に入った。
「そういえば、ピアノ…上手なんだね。」
「…え、ああ。昔習っていたんだけど……今は大分忘れてしまったよ。指が全然動かない。さっきのは全然、ひどいものさ。シンジ君はクラシック音楽は好きかい?」
「うん。チェロをやっていたから。」
「それは素敵だね。合奏が出来るくらい僕の勘が戻っていればいいのだけれど。」
「そんな…僕の腕だって大したもんじゃないよ。…それにここにはチェロが無いし。」
シンジは笑う。そして口に出しては言わなかったが、君はもうすぐドイツに行っちゃうからそれはきっと永久に無理だよと思い少し悲しくなった。
すると、カヲルの柔らかい声がした。
「…今度日本に戻るときまでに、勘を取り戻しておくよ。」
まるで感情を読み取ったかのようで、シンジはどきりとした。
「え、」
「親戚が居るから、年に一度くらいはいつも日本に来るんだ。機会があればいつか、合奏しよう。」
「…うん。」
たったそれだけの、果たされる保障など何も無い他愛無い約束。だけどシンジは胸がいっぱいになってちょっと言葉が出なかった。
初めて、カヲルが行ってしまった後の約束というものをしたからだ。
先ほどセフレがどうのと考えた同じ頭で、些細なこんなことに勝手に感動する、僕は変な奴だな、と思いながらシンジは俯いてジャガイモの皮を剥き続けた。
一時間後、美味しいカレーが出来上がった。
続く