天体観測

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5.夕陽


カヲルの存在は、中年の男との体験やPCの前での息苦しい時間と全く別の世界に属していた。

いや、はじめからそうだったわけじゃない。
実をいうと最初彼を見たとき、昔PCで発見したあの年若い男優をふと思い出してぎくりときた。別にすごく似ていたわけではない。単にカヲルが日本人離れしていて背も高くすらりと手足の長い少年だったから、他の同級生よりは少しだけ似て見えた。それだけだ。


ドイツでの新年度に合わせて9月に転校してきたカヲルは季節外れの転校生だった。最初はクラスも違ったので滅多に顔を合わせる事も無く、シンジの生活に殆ど関わりのない存在だった。

そんなカヲルを意識し始めるきっかけになったのは、これまた実に些細な出来事だった。
カヲルが来てひと月も立った頃だろうか。委員会関係の用事があって学校に居残ったシンジは鞄をとりに人気の無い教室に戻った。

戸を開けたとき、夕陽が照らす教室の窓辺に誰かがたたずんでいるのを見た。カヲルだった。

後ろの方の隅で窓枠によりかかるようにして外を眺めている斜め横顔。よく見ると小型のミュージックプレイヤーで音楽を聴いているらしく、シンジが入ってきたドアの音には気づいていない風だった。

その光景に、シンジはドアを開けたまま思わず立ち尽くした。
何か犯しがたい空気を感じたからだ。

逢魔が時、灯りのついていない教室で光が少年と空間を橙色に染めていた。窓から投げかけられた夕映えは暗い教室へと平行四辺形に伸びて、シンジの足元まで届いていた。
そしてカヲルは身じろぎもせず、表情の読めない透明な眼差しを暮れなずむ空へと注ぎ続けていた。


呆然と見ていたら、ついにカヲルの方が視線に気づいた。何のかげりも無い笑顔がその整った顔に浮かんだから、シンジは決まりの悪い思いをする。まるで覗き見をしていたような気分になったからだ。

どう反応したものかと躊躇っているシンジに、カヲルは朗らかな声で言った。耳からイヤホンをはずしながら。

「この教室は夕陽がきれいだね。僕のクラスからはこんな風には見えないんだ。」

「…夕陽?」

「うん。君はこのクラスの人かい?」

「そう…だけど。」

「運がいいね。ここは眺めがいい。僕の教室は建物の反対側なんだ。」

どうやら校庭のグラウンドの向こうに沈む夕陽を眺めながら音楽を聴いていたらしい。それもわざわざ景色のいいシンジの教室に入り込んで。
シンジは呆気にとられ、次に変な奴と思った。
そのまま曖昧に笑って鞄を持って帰ろうとしたが、運が悪くシンジの席は偶然カヲルの立っている窓の真横にあった。

ちょっとごめん、と居心地の悪い気分でカヲルと机の間に割り込むようにして自分の席から鞄を取り上げる。そのとき、イヤホンを片耳だけつけてプレイヤーをいじっている彼の側から、ふと聞き覚えのある旋律が聞こえた気がした。

「…第九?」

チェロをやっていてクラシック音楽には馴染みがあったのだ。

「え、ああ、耳がいいね。僕はこの曲が好きなんだ。」

すぐ側でカヲルの穏やかな声が音楽のように響いて、一瞬どきりとした。
見上げると夕映えを映して不思議な色の瞳が赤く輝いていた。シンジはちょっと気圧されて、僕も第九は好きだよと答えたが、声が揺れたのを自覚した。



そのあと二言、三言どうでもいい会話を交わし、さよなら、とカヲルに挨拶をしてまっすぐに家に帰った。

帰り道、電車に揺られながらふと考えた。
一人夕陽を見ながらクラシック音楽を聞くなんて何だか冗談みたいなことをする人だなと。だけどその表情、口調、有無を言わさない雰囲気の眼差しを思い出すと胸が熱くなった。

たったそれだけのことだった。
だけど次の日から何となくカヲルが気になり目で追うようになった。

そして、一度意識してしまうと、「少し気になる外見の外人みたいな男の子」が、「渚カヲル」という固有名詞を持つ存在へとみるみる変貌していった。

あ、これって好きってことなのかな、と自覚したのがいつだったかは覚えてない。望まない身体の経験はあったくせに、それまで他人をまともに好きになったことがなかった。だから多分、気づくのが遅れた。夕陽さす教室での会話以来かなり経った頃で、既にもう後戻り出来ないほどに彼に惹かれている自分に気がつき、当惑した。

新年度に入って同じクラスになってもまるで接点がないというのにその気持ちは止まらなかった。



およそ彼の内面について何一つ知っていないというのに、生身の人間の存在感というのはどうしてこんなにも力強いのだろう
ふとした仕草、風に乱された前髪をかき上げる横顔、少し前屈みになって、ポケットに手を突っ込んだまま誰かを待っている様子。
「次の日直、碇くんだよね?」
つまらない事務的な会話、笑顔。
図書室で読書中の彼とすれ違ったとき盗み見た本の題名。
そして体育の時間、バスケで華麗にシュートを決める後ろ姿。
そんな日常の断片から目が離せない。


とはいえ彼の後ろ姿を追うたびに、いつも自分の中の冷静な部分の声がしていたのも事実だ。結局、上っ面しか見てない。要は外見に惹かれてるだけじゃないか。
ディスプレイの画像と何が違うんだ?
しかも自分は男で相手も男で、こんな風に思っても迷惑なだけだ。互いにいい事なんて何も無い。


自嘲的になって何度か気持ちを打ち消そうとしたこともあった。
だけどそのたびに蘇るのはあの夕暮れの教室。横顔、音楽。あのとき何を思っていたのだろう?何を見ていたのだろう?
彼の事が知りたいという気持ちがこみ上げる。要は、好きでたまらない。

まるで、自分の中に彼という人間そのものが深く根を下ろしてしまったかのようで、どうしても目を反らす事が出来ない。
些細な日常の場面で、彼ならこういうときどういう意見を言うんだろうとか、家に居るとき、今ごろ何をしているかなと考えたりしてしまう。


絶望的に一方的な片思いなのにやめられない。
例えある日、彼女らしき女の子と二人並んで帰る姿をみて、夕陽がいつもより心に沁みたとしても。
相変わらずカヲルが自分の日常から遠く、無関係なことを改めて嫌というほど認識したとしても。



続く


【作者後記】
なんだかうちのサイトじゃないみたいな乙女な回ですね^^;。
ていうか、こんなにしつこく片思いの人間の心理描写をやったのは初めてかもw

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