天体観測

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V. 呪い


程なくして僕は街に出会いがある事を知った。同時に僕の外見がそれにはおあつらえ向きである事も。
他の人と会うのが忙しくて、少しずつ僕は先生の家から遠ざかっていた。
ピアノもやめた。
ギムナジウムの勉強が忙しくなったから、そう理由をつけた。
先生は君のピアノは上手かったから勿体ない、と何度かうちに電話をよこしたが、適当に生返事をして僕はごまかしたらそれ以上追求も無かった。燃やした写真のことは訊かれなかった。


飛行機事故が起きたのは、疎遠になって少したった頃のことだ。
詳しいことは知らない。秋の終わりだった。
ヒースローで離陸後連絡を絶ち、飛行機は海に落ちたという。
機体を捨てて救命ボートで逃げた者もいたが、多くは取り残され助からなかった。その中に彼がいた。

知らせを聞いたとき、現実感はなかった。

彼の親族は日本だから当地で本格的な葬式は行われず、彼の芸術家仲間が主催したという故人を忍ぶ会に母と招待されたが、知らない大人ばかりですぐに退屈し先に帰った。
見た事も無いようなよそ行きの笑顔で笑ってる先生の写真と大量の花と。
何のリアリティも迫ってこなかった。

まるでふと長い旅行に出て行ってしまっただけのような気がした。

その日の夜、また街に出たような気がする。
でも、もうよく思い出せない。
霞がかかったように記憶が欠落している。



そして先生の痕跡は急速に僕の生活から消えた。

最後の彼のことで覚えているのは、母から、彼の親戚が日本から家を整理しに来たと聞いたことだ。僕は自分の写真を処分しておいたことにほっとした。
彼らは他の写真を見るのだろうかと考えたが、それは僕の想像を超えた話なので思考を止めた。


ピアノには鍵をかけ、弾かなくなった。
忘れようとした。塵が積もるに任せた。





……だけど、多分うまくはいかなかった。


まるで彼との記憶をたどるように、壊れたレコードの針が何度も同じ箇所を繰り返すように僕は似たような人と関係を持つし、日本への交換留学へ応募してしまう。
彼を育んだ国、空っぽの墓標の前に導かれるように。
ぐるぐると呪いのように同じ主題を繰り返す。
気づかずに辿って来た道筋をなぞる。

本当に奇妙な話。
そしてシンジ君と出会った。
成り行きに任せて彼を受け入れ引き寄せるようなまねまでしたのは、いつもの惰性か、それとも変化を求めていたからなのか。

わからない。

あの日、二階にいるシンジくんのことを考えて僕は確かに少し落ち着かない気持ちだった。突然ピアノに触りたくなった。

思うように動かない指が紡ぎ出したのは第九だった。
呪われた旋律なのに、これを聞くと身体の内側が引っかかれるような気持ちがする。攻撃的な憂鬱さが入り交じった高揚感を覚える自分がいる。



降るような星空の下で向き合って、僕は彼を美しいと思った。
本人は自覚すらしていないのだろう、その飾らないそぶりも不釣り合いな自信のなさも清々しかった。
実のところ、それまで同年代の少年を相手にしたことは無かった。僅かにつきあった彼女の時と同じで、最初は自分とまるでちがう生きものを眺めるような気持ちだった。だけど話を聞くうちに気づき始めた。
僕たちは同じではないがどこかが似ている。
だからうかつに僕は先生のことを口にした。混乱したまま記憶の封印を解いてしまったのだ。


あんなふうに泣かせるつもりじゃなかった。
それだけは後悔している。


だけどあの日、彼の涙が、強い感情が、僕の中の何かを押し流してくれたような気もしている。


彼が僕のことをわからないように、僕も彼のことをわかりっこないのだと彼は言った。それでも好きなのだと泣いた。

本当に変な感覚だった。
体重を預け僕にすがりついてきたのは彼なのに、彼は結局人はわかりあえないのだと言ったのに、まるで自分が全身をもって受け入れられたような気がしたからだ。
それもただ呑み込むような受容ではなく、僕という人間を認めた上で受け止めてもらえたような――――気持ち。


美しい錯覚だということはわかっていた。
僕たちは彼の言うとおり互いに何も知らない。
数日後には一万キロの距離に引き裂かれる。
気がつくと、人は一人なんだよ、心を揺さぶられながらも言っていた。

ただ、孤独を忘れることが出来るだけなんだ。
(今、この僕に満ちた想いのように。)

だけどまるでそれこそが慰めであるかのように、シンジくんは泣き止んだ。
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