天体観測

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III. Verzweiflung

季節が巡り小動物を殺すのにも飽きた頃、時々僕は電話をかけるようになっていた。
雨が降っていて憂鬱な夕方が多かった。


"Allo”
(もしもし、)
"Ich mochte Ihre Rate haben..." 
(アドバイスを頂きたくて…)
"Seit einiger Zeit bin ich gezwungen........die Geschlechtsbeziehung mit einem Erwachsenen zu haben." 
(少し前から、ある大人に性的な関係を強要されているんです。)

"...Ich bin 14 Jahre alt." 
(僕は14歳です。)

そこから後はいつも同じ。
ソーシャルカウンセラーが僕に取るべき行動についてアドバイスを与える。
はい、はい、と僕はおとなしくうなずく。
そしてあることないことを織り交ぜて、少しだけ話す。
連絡先を求められ僕はもう少し考えたいという。一度相談に来ないかと誘われ、それももう少し考えたいと答える。
電話を切る。

そして相談にはいかないし、次かけるときは違う年齢を言って別の話をするのだ。もちろん番号は非通知で。



どうしてこんなことをするのか自分でもよくわからなかった。
ただその頃とても苦しかった。
身体が大きくなり知恵もついて自分のしていることの意味をわかりはじめていたからだ。

同時に母親が知ったらと思うと恐ろしかった。辛かった。
母の信頼している大人が僕にしていることがわかれば彼女が傷つくだろうと思ったからだ。そして先生の人生も変わるだろう。警察が来るだろう。彼には会えなくなるだろう。僕にその全てをする勇気があるか?


僕は母を愛していた。
誇りにも思っていた。日本人だったが父がいなくてもドイツに仕事を持ち、しっかり根を下ろしていた。
再婚する気配もなく、いつまでたっても彼女は外国で一人で子供を育てているシングルマザーだった。そんな立場にいる彼女を、僕には支える義務があるように感じていた。
母は滅多に弱いところをみせず、むしろ努めて陽気に振る舞うような人だったけど、やはりそれでも僕は彼女を守らなければと思っていたのだ。

ほんとは母は僕なんかより、ずっと大人で強い筈なのに。

(…こういう感覚はどこから来るのだろう。)
(……男、だから?)
(慈しむように、見下ろすまなざし。)
(先生が僕に向けるのとどこか似てる、あの、)



そのころ何もかもうまくいっていなかった。
成績だけは必死で維持していたが、学校ではまるで友達と話が合わない。次第に孤立していった。まるで違う世界を生きているように感じていた。
休み時間になると頭がぼうっとして、ぐったりと机に腕を組んで突っ伏せば臭いがする。ほら今も。
どんなに洗ってもとれない。あの人の。
煙草と微かに乾いた汗のにおい。

いや、違う。これはもう僕の臭いだ。
いつでも夜の湿った空気を体中にはらんで、重い。
どんなに太陽の光で漂泊しようとしても、取れない。
吐き気がこみあげる。もうあの人の所へ行ってはいけないと頭の中で声がする。


だけど、夕暮れになると寂しくなるんだ。逢いたくなる。昼間嫌悪した煙草の匂いまで慕わしく思えてくる。そしてただ単純に、身体がうずく。

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