天体観測

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II. 混乱

12歳、13歳。記憶は定かではない。
僕は混乱していた。
ずっと混乱し続けていた。
母は先生の見かけにだまされて何も疑っていなくて、気づくと僕と彼はすっかり共犯者だった。


家に一人でいてつまらなかったら、いつでもうちに来ていいぞ。
レッスンが終わり挨拶に出た母がいる前で先生は目配せしながら僕に言う。
肩に置かれた大きな手。
条件反射のように僕は微笑むのだった。

研究所勤めの母は大抵夕食の時間には帰って来ていたが、週に一度は必ず遅くなる日があった。調査で出張に出ることもあった。そんなとき僕は先生のもとへ「親公認」で預けられさえした。

彼には全てがあった。少なくとも子供の僕にはそう思える何かがあった。
セックスと音楽、文学と哲学を少々。晴れた日には外でテニス、曇りの日にははやりのゲームをやったり映画を二人で観賞したり。

文句なく楽しいと思えた時間もあった。
月に一度くらい、夜の7時から9時、馴染みの店で先生が他の仲間と一緒にちょっとした演奏会をやるのに連れて行ってもらった。いつものクラシックではなく、ジャズ風のアレンジが入った曲目をやったりして、朧げな間接照明の中ライトを浴びて先生はいつもより生き生きして見えた。

日本人離れした大きな動作で色々な国から来たミュージシャンと一瞬で意志を交わし合う。微かにエキゾチックなアクセントのあるドイツ語も十代の前半からずっとこの地に馴染んできただけあり淀みない。
そして彼には他の人に無い陰影があった。うまくいえないが、この国の薄い色をした瞳や髪の人々に囲まれると彼だけが違う空気をまとっているように見えた。
東洋人だからというだけではない。母や、ちょっとだけ通っていた日本語補習校の教師達にそれを感じたことはなかった。

彼のお陰で食べた事も無いような料理を無料でご馳走になりながら、憧れの眼差しで見つめたものだった。

僕の知らない世界の住人である彼を。







ある日、上り詰め、声も出ないくらいの快楽を知った。

もう子供じゃないんだよ、彼が嬉しそうな声を出した。


本当の地獄も、そこから始まったような気がする。

世界が次第に輪郭を持って見え始めた。
光、そして闇。

何もかもがすれすれの場所に隣り合い、時には混じり合ってしまう。
愛と憎しみ、苦痛と恐怖、そして快楽。


自分の意志に反して走り回る指に嫌悪感を覚えながらも身体は熱を帯びていく。
それと引き替えのように、押しつぶされ窒息しそうな息の下で有無を言わさず侵入され、抉られる。まるで与えられた優しさや快楽の対価を求められているような容赦のなさ。
時には身体を傷つけられさえする。



雨の降る夜明けだった。


ああ、ちょっと今日は激しくし過ぎたかな。だいぶ血が出てる。

囁き声。

カヲル、カヲル。もう知って居るんだろう?
これは犯罪だ。本当は子供とこんなことしちゃいけないんだ。

先生の声で我に帰る。頬が冷たく濡れているので自分が泣いているのを知る。気絶していたのではないはずなのに記憶が曖昧で頭がぼおっとしている。手足が冷たくて麻痺したような感覚が残っている。またか、と人ごとのように僕は思った。ときどきこうなるんだ。まるで自分のことを遠くから眺めているように感じる。


辛いか。苦しいか。

…自分でもどうしてここに来るのかわからないって顔してるな。
(え、何?、僕は聞き返そうとしたら、彼は笑って答えなかった。)


最近なら学校でも習うだろう。大人にこういうことをされそうになったらどう避ければいいか。
相談カウンセラーの番号くらい持ってるんだろう。
名前を言って身体をみせれば一発だ。警察が来る。

そのくらい俺だって知ってるさ。どこの国でも、俺がガキのころからだんだん厳しくなった。

(どうして彼は、そんなことを僕に話したのだろう。)

そんな目をするなよ。

(何かに憑かれたような表情で話し、嗤っていた。)

…もっと滅茶苦茶に、してやりたくなる。

(まるで遠い場所を思うような暗い眼差しで。)



翌朝、先生のもとから学校に行くとみせかけてさぼった。
適当なバスに飛び乗って終点で降りたら自然公園の入り口だった。殆ど森のような木立が広がっている。あてもなく分け入っていくと、鬱蒼とした茂みの側に子猫を見つけた。
親猫とはぐれて死にかけていた。
抱き上げると濡れた瞳で僕を見た。寂しい?僕は訊いた。
そんな目をするなよ、自分の声が歌うように響くのを他人事みたいに訊いた。

きっとここにいても誰も来ないよ。僕以外、誰も。
それでも僕に助けて欲しいかい?
手に力を込めたら骨の砕ける鈍い音、死んだ。




動物を殺したら罪に問われて罰金だとどこかで聞いて知っていた。
だけどばれなかった。
当然だろう。先生が捕まらないのだから。

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