天体観測

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I. 遠い記憶


遠い場所。記憶の向こうの時間。
ピアノの発表会の帰りにそれは起きた。

あの頃、僕の両親は離婚したばかりだった。しかも偶然その時期、母は仕事で忙しくて、僕の発表を聞いた直後に飛行機で出張に出かけねばならないというような有様だった。
僕はピアノの先生の家に預けられた。
これまでにも時々あったことだった。先生が離婚前の僕の父を先に知っていたという事情と、いわゆる外国に住む日本人同士特有の連帯感というやつだろう。

その日、発表会のために僕は水兵服を着ていた。
僕自身の好みというよりは、子供のくせに背広だなんてとネクタイを嫌った母の趣味に近かった。
だけど先生はとても似合うと言った。すごく似合うから写真を撮ってあげるというのだ。

僕だけですか?
ああ。今日の記念に残しておこう。

すでに会場で沢山撮られてうんざりしていたが逆らう理由もなかったので従った。

一、二回シャッターが切られ、もういいだろうと思ったら、先生がまだまだといって急に灯りを暗くした。

何をするんですか?
雰囲気を変えてみるんだよ。ほら、違った風に撮れるだろう。

またシャッターが切られ、デジカメのディスプレイを先生は僕に差し出した。フラッシュもたかずに撮られたその画像には、どこか遠い方向を見ている僕が映っている。淡い間接照明に照らされたその姿が、何だかいつもの自分ではないような気がした。

写真って面白いだろう。
そうですね。

感性が芸術的なだけあって、先生はヴィジュアル的なセンスもあったのだろう。確かにその写真は美しい部類に入るものだった。
闇をはらんだ光の色の中、陰影に彩られながら浮かび上がる輪郭。
少なくとも僕はその映像に惹かれた。自分に見とれたからではない。写真といえば昼間の陽光かフラッシュの光で白々と染め上げられた明るい映像しか知らなかったそれまでの僕にとって、それが何か別の世界の断片を宿しているようにみえたからだ。

どのくらい、見つめていたのだろう。
スピーカーから緩やかに流れてくる音楽の調子が変わったのに僕は気づき、顔を上げた。

ああ、第九ですね。

だがそれには答えず彼は言ったのだった。


ちょっとだけその上着を、脱いでみてくれないか?







記憶が飛び、次に覚えているのは煙草と混じった大人の体臭。
ふと、僕は自分の身体がすっかり冷たくこわばっているのに気づく。

目をつぶる。頭の芯がぼうっとして身体の中心がひどく痛んでいた。
だけどすっぽりと自分を包む先生の胸が暖かいので、全てがまるで夢のように感じられている。
ここにいる彼とピアノの前で先生然としている彼とがまるで別人のような気がして、それもヘンだと思った。

寒いのかい?
頭の上から声が降ってきた。顔は見えない。

はい、少し。
でも、今はあったかいです。僕は言った。
そうか。
大きな手が僕の頭を撫でる。
気持ちいい。
だけど頭の奥で何かが引っかかったままだ。
どうして僕はここでこんなふうにしているんだろう……

もう、お休み。
彼の声が遠くから聞こえた。思考が止まる。

その後の事は覚えていない。でも確か、もう音楽はやんでいた。


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