天体観測

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10.体温

「カヲルくん…?」

シンジくん、とカヲルが言った。少し虚ろな響きが籠った声だった。

「…多分僕は全然、君が思っているような人間ではないよ。」

ふっとため息をついてちょっと笑い、まだ汗の乾かぬ額にはりついた銀色の前髪をかきあげる。

「え?」
「むかし仲良くしていた年上の人が確かにいたけれど、別に愛し合っていたわけじゃないんだ。」
「ど、どういうこと?」
「…セックスフレンドだったってことさ。単なる遊び相手。」

戸惑うシンジを前にカヲルは続ける。目線を斜め前に投げたまま、抑揚の無い淡々とした口調で。

「僕の行動原則には、自由と快楽しかない。だから貞節や一対一の関係には関心が無いんだ。これまでだって、その彼の事も含めて機会があれば誰とでも寝てきた。…ちょうど今こうしてるみたいにね。」

シンジはどきりとした。今、と言ったカヲルの言葉が突き刺さったからだ。混乱し、うろたえる。

「え、ち…ちょっと待ってよ。いきなり、何が言いたいの…?」
「つまり、僕は多分君が予想する以上にどうしようもない遊び人だということさ。しかもずっと昔から、最初からそうで、それを悪いとも思っていない…。」

「でも、彼女とかいたじゃないか。」
遮って、疑問をぶつける。
「だから別れたんだよ。僕が変われなかったから。」
「な、なるほど…。」

カヲルが唇を歪めるように薄く微笑んで言う。こんなやつでごめんね、と。だがその眼差しはひどく透明で笑っていない。

奇妙な告白、シンジはどう受け止めていいのかわからず呆然とするがでも何かが腑に落ちない。違和感。ふと蘇ったのは星空の下での会話だった。

「でも…ならば、何でさっき、その最初…彼氏のことがあって日本に来た、なんて話までわざわざしたの?あれは…嘘なわけ?それとも…」

恋人という呼び方をしなくても、やっぱりある程度大事な人だったんじゃないの、と訊こうとしてやめた。
カヲルの表情が一瞬緊張した…ように見えたからだ。

しかもまたあの口角だけ上げるような笑みを浮かべ、ぽつりとつぶやくのだった。

「…そうだよ。僕は嘘つきなんだ。」
「それって…何のために?」
「さあ…どうしてだろうね。あまり考えずに言った事だから。その場のムードを繕いたかったんじゃないか。」


軽蔑してもいいよ、そう言ってカヲルは目を反らし俯いた。
だが、変だ、とシンジは思った。カヲルの言っている事はやはり全体として矛盾している感じがしたのだ。しかも更に奇妙なのは彼自身がそれに半ば無自覚で、シンジの質問に少し動揺している様が見て取れた事だ。

そのときだ。
突然、シンジの頭にあることが浮かんだ。
数時間前に見た写真、透明な子供の笑顔。

「カヲルくん、ずっと昔からそうだったって言ったけど……」

そしてその側に居た男の眼差し————

「一つだけ…聞いていいかな。その最初の人って…ピアノの先生?」

目の前のカヲルから一気に、笑みが消えたのを見た。

「どうしてそんなこと聞くんだい?…そうだけど。」

たったそれだけの曖昧な答え。
なのに聞いた途端どくんと胸が恐ろしい音をたて、意識の表を映像が覆った。

重なった、大人と子供。
おおきいからだとちいさいからだ。

あまりにも唐突で鮮明で、シンジはうろたえる。

(何だこれ、僕、何を考えてるんだ。だからって別にそうと決まったわけじゃ…)

だが止まらず、勝手な妄想に余計な自分の過去の記憶まで蘇る————例えば大きな、骨張った手の感触。

ぞわっと背中に鳥肌がたち身をすくめ、タオルケットごと抱えた膝に顎を埋めた。

(違う、僕は気にしてなんかいない。)
(それにもう…子供じゃなかった。)

「…シンジくん?」

(子供じゃない。…大した事じゃない。)

「…なんでもない…。変な質問して…ごめん。」

気づくと手が震えてる。寒い、と思った。

「ご、めん。」

訝しげな眼差しをカヲルが向ける。何だこれ、僕おかしいな、と思ってシンジは笑おうとしたが顔がこわばってうまくいかない。

カヲルが側に寄り、覗き込むようにするのを見上げた。何も言えず黙っていると白い指がシンジの手を掴み、言った。

「また、指が冷たいね。」

握り込むように触れた手の暖かさにほっとする。身体の緊張が緩んだのを感じて、同時にぼんやり疑問がかすめた。
また、ってことはさっきもそうだったってこと?
だけど考えがまとまらない。

「大丈夫かい?」

その言葉がしみるように心に響く。
どうして?
何故カヲルはこんなふうに言うのだろう?
呆然とシンジはカヲルを見つめ返した。
カヲルのもう片方の手が背中に触れた。肌と肌、直に伝わる体温。
その瞬間、ぷつりと何かが切れた。こみ上げる感情があった。

(……助けて。)

がくがくっと身体が震える。

「大丈夫、じゃない…。」
「シンジくん…」
「君も…僕の事なんて何も知らないんだ…。僕がどんなやつで…」

混乱のまま、震える声で口走っていた。必死で、カヲルの手を握り返す。

「で、でも、でも…………僕はそれでもいいと思うんだ。人には、い、言えない事とか、思い出したくないこととか、あるし…だから、知らなくても僕、君の事好きで、」

そこで言葉に詰まる。さっきまでの会話の流れも何もなくなっていた。色々な感情がごっちゃになって頭が真っ白になって、もう支離滅裂。浮かんだのは只一つの言葉。

「…すき、なんだよ。だから……行かないで。」

口にした途端、視界が歪んだ。声が裏返る。

(助けて、行かないで)

「ドイツになんて、行かないでここにいて、よっ…」
「シンジくん…」
「き…君がいないと僕、ひ、一人に…」

どっと堰を切ったように、涙が流れた。言葉がつかえて嗚咽に変わる。

「一人、にな…寂……」


(————————寂しい。)


寂しい。日常となった心象風景。友だちから取り残された気分の教室。
父親を見送った後、誰もいない家で過ごす夜。

(行ってしまう。一人になる。取り残される。)

当たり前のように一人だった日々。心を隠して、生きる日々。


(いつも寂しかった。)
(誰と居ても、何をしてても、)
(あのカラオケルームで、あの人といたときだって。)


(————嫌だったんだ。)
(知らない大人の手、身体を這い回る。)
(…でもそれでも触る人がいる方が良かったような気もした。)
(そんな自分がいやで滅茶苦茶な気分になった。)

だから記憶を封じて一人閉じこもった。静かな殻の中は安全だ。
だけど今度は寂しさが重くなる。寂しくないときはいらいらする。どっちも嫌だから感じるのをやめる。
今度は生きてる気分がしなくなる。繰り返しで日々が過ぎる。

カヲルが来てようやく世界が変わった、と思った。
殻から一歩踏み出して握る手がこんなに暖かい。例えひとときの温もりでも今彼は自分の前に、此処に居る。

(だけど行ってしまう。)

「寂し、い」

絞り出すように呻いた。

「僕の事…っ、好きでなくてもいいから、い、行かないで欲し…」

シンジ自身は気づいていない。ただの恋ではなかった。むしろそれ以前でありそれ以上の問題。

カヲル、やっと巡り会えた仲間、夢、温もり。
不幸なことに友人を恐れるようになってしまったシンジにとって、彼は初めて自分を受け入れてくれた、唯一無二の他者。
だけどもうすぐ失う、と彼は怯える。圧倒的な寂寥感に押しつぶされそうになる。恐怖。

「あ、遊びでも何でもい…いから、此処に、居てよっ…」

好きなこの人の体温が側にあるだけでこんなに救われる。溺れるものが藁をつかむような思い。例えその心が遠いとしても————

色々な感情で滅茶苦茶になり、人生で初めてこんなふうに泣いた。



当惑の色を浮かべながらカヲルはシンジを見ていた。微かだが、強い感情をぶつけられた恐怖にも似た動揺がその表情にあった。刹那の逡巡、だけど意を決したように、すがりつかんばかりの相手をそっと胸に抱きしめる。
黒髪の頭を撫でて優しく、でもきっぱりと言う。

「それは無理だよ。僕はここの人じゃないんだ。」

突き放すような言葉。でもそれとはうらはらに、抱きしめる腕に力を込めるのだった。シンジの嗚咽が、止まる。

「うん…わかってる…ごめん。」
「…謝る必要ないのに。君は何でも謝りすぎるよ。」

柔らかく細い黒髪に指を絡め頬を寄せるようにしてカヲルは目を閉じた。シンジはじっと動かない。頬にカヲルの体温を感じながら、その呼吸が落ちついていく。

静寂にぽつりとカヲルの声だけが響いた。

「シンジくん、人は皆一人だよ。生まれたときも…死ぬときも。」

死ぬ、という言葉にこめられた感情があった。どこか、遠い日々を思うような、自分に言い聞かせるような声の調子だった。

「ただ、それを忘れられる瞬間があるだけなんだ…例えば今みたいに。」

シンジは涙を拭いぼんやりと聞いている。

「でもきっと一人だからこそ…時折こうやって触れ合い孤独を忘れる事がこんなにも心地いいと思えるんだ。…生きて行けるんだよ。」

カヲルの言葉に心の奥深いところに穏やかな波紋が広がるような感覚を覚え、呟いた。

「…心地、いいと思ってくれてるんだ。今、僕と居て。」

「…うん。もちろん。」

一瞬沈黙があった。

「それ、嬉しいな。…すごく嬉しい。」

目を伏せたまま、シンジが泣き笑いの表情になる。
顔を上げたら、カヲルにキスされた。額に、そして唇に、軽く。
離れて束の間、見つめ合う。

次の瞬間衝動的に、シンジの方から腕を伸ばして引き寄せ、深く口づけた。そのまま何も言わず、何かを紛らわすかのように奪い合うことに没頭して吐息が漏れる。

勢いのまま、気づくとカヲルの上にのしかかるような格好になっていた。腕の下で端正な顔が薄く微笑む。シンジを見上げて天を仰いでいる瞳に澄んだ光が宿っている。

「…どうするつもりだい。」

それを聞いて覚悟を決めた。ここまできたのだから後は悔いの無いように楽しもうと。純粋に、快楽を。

何より、今の彼はひどく美しかった。
このまま何も言わず、聞かず、一緒に死にたいと思わせるほどに。

「…君はどうするのが好きなの。教えてよ。」

シンジも微笑みを浮かべる。涙の乾いた後のまぶたが熱くて照れ臭い。

「何でも……されるのも、好きだよ。」

「じゃあ…カヲルくん、」

そっと目を閉じた、愛しい人の頭をかき抱く。

「僕の初めての人になってよ。」


口づけた。




続く




【作者後記】
実に微妙というか心理的にややこしい展開ですね…。しかも…長っ…(汗
泣き言を言うと、この場面書くのにえらい苦労しました。勝手にこういう微妙な話を書きたくて始めたのだけどやってみるとえらい難しかった…。

そしてどうしてもシンジを泣かせたくなってしまうという…w
でも最近DVDで久しぶりに第一話、二話、三話とみてると、シンちゃんてやっぱ泣きキャラ(あと鬱)なんだよあなと改めて再確認したりもww

…それにしても(9)でカヲルにネコとかタチとかいう言葉が異様に似合わなくてマイッタ。つい攻とか受とか言わせたくなって…なんかエヴァキャラだとその方がすっごい自然に感じてw
いやでもそれはあまり言わないよなあ(全く言わないわけではないけど)と記憶をフル回転させました。

どうでもいいけど、この回でやっとカヲシンリバ(つまりシンジの攻)を達成…。


(追加)…すいません、うpした数時間後にちょっと手直ししました(汗
いや、あげたとき眠くて結構頭が朦朧してたもんで…
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