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il pleuvait a la nuit.

Genesis

1.

時差で重い頭を抱え、夕刻頃小雨のベルリンに降り立った。
数年ぶりのドイツ。まだ感覚が戻ってこない。
だけど、空港で話しかけられたら結構まともに言葉が出てきてほっとした。
久しぶりのようで、でもこの間までいたような気もする。
でも飛行機の機内で見た夢には、ばっちり第二東京市の山並みが映っていたわ。それもどっちかっていうと仕事がらみの悪夢だった。
だめね。身体が移動にまだついていっていない。


ゼーレからその仕事の以来が入ったのは、一週間前。非常識な唐突さで、しかも只でさえ忙しいのに最初は数ヶ月単位で滞在しないかなんていってきたから冗談 じゃないって突っぱねた。でも、向こうは私の経験とデータを頼みの綱のように思っているらしくて、それもあまりに必死だから、結局こっちも折れて、最終的 に二週間の出張に切り詰めることで合意した。

仕事の以来はあの―――仕組まれた子供について。

極秘任務だった。
それなりの報酬を約束した上で、現在の私の雇用先であるネルフ本部にも、今回の件については明らかにしないとの誓約書を書いてある。


空港まで来ていた迎えの車に乗り、目的地へと向かう。
車はそのまま一路、アウトバーン、つまり高速道路を走っていく。あっという間に田園地帯へと風景が変わり、そして森へと続く。

長旅の疲れでうとうとして、「もうすぐ着きます。」の一言で我に返った。

夜風が冷たい。まるで別世界へ至る道のように電灯がなだらかな丘へと続く道をぼおっと照らし出し、その先に白い建物が浮かび上がる。 有名な建築家が作った という建物だけど、いつ来ても、馴染まない。嫌いというのではなく違和感が消えない。どこか非現実的な気持ちにさせる場所。





生真面目で事務的な所員達は、挨拶が済むなり本題に入った。
本題、つまり私が呼ばれた理由のことについて。


「これが一人目です。こちらが―――死体解剖の結果です。」

生々しい傷跡に、一瞬目を背けそうになる。
ミーティングルームの淡い蛍光灯の光の下、私は無造作に並べられた写真と報告書を時差ぼけた頭で見ていた。
十日前にこの研究所内で死亡した少年に関するものだった。

いや、精確には少年――人間ではないのだから、この言い方は正しくない。
「それ」の名はタブリス。
ゼーレの最重要機密に属する実験により生み出されたヒト型の実験生物――なのだった。

「自殺…?」
首筋にぱっくりと赤黒く開いた傷口を眺めているうちに、少しずつ職業的な感覚が戻って来た。

「はい。それ以外あり得ません。しかも傷跡には一切の躊躇いが見られなかったそうです。」

所員達は少し訛りのある、でも流ちょうな英語で答える。色々な国籍の研究者が入り乱れる所内の共通語は英語だった。


私は驚かなかった。最初依頼を受けたときから薄々その類のことじゃないかと考えていたからだ。
実験体が発作的に自己破壊衝動に捕らわれる。
もともとサルベージされた魂だもの。肉体との齟齬があっても不思議じゃないわ。

ふと、青い髪の後ろ姿が浮かんだ。
確かにあちらは順調に成育中といえるわ。理想的…とまではいえないけれど、とりあえず死にそうにないわね。苦い感情がこみ上げるのを慌てて打ち消す。

レイがそうであるように、タブリスにも無数のスペアがある。
今頃地下の水槽では別の個体が覚醒している頃だろう。
私に要求されているのは、レイを育成した経験をもって、その「二人目」を今度こそアクシデントなしに成熟へと導けるよう、育成プログラムを組むことだっ た。そのためには「一人目」の自己破壊を誘発した因子と思われるものをある程度把握せねばならない。



改めてテーブルの上を見渡す。物言わぬ少年の白い身体が、写真の小さな四角いフレームの中、何度も何度も、執拗に角度と位置を変えて 映し出されてる。

「この腕は?ひょっとして…」
白い、透き通ってしまいそうなほどの色をした死者の皮膚に走る数本の線を見とがめて私は訊いた。

所員達は顔を見合わせ、研究主幹の地位を持つ一人が意を決したように口火を切った。
「…ええ、お察しの通り、事件の少し前から自傷行為がみられました。」

「少し前、どのくらいから?」

「半年前くらいからでしょうか。」

「何か原因に心当りはあるの?」

「いえ…はっきりとは…ただ、」

「ただ?」

「実は、そのことで一人所員が取り調べを受けていまして。」

「取り調べ…?」

「はい。大変申しにくい事ですが、その人物が性的虐待を行っていた、という証言が出ているのです。」

「性的虐待ですって…!これほどの厳重な監視態勢をひいておきながら?一体どういう…」

眠気が一気に覚めた。予想外の展開だった。

「ええ、所員全員も自体をとても重く受け止め、真相の究明に当たっています。」

「重く受け止めって、それじゃ済まされないわよ!だいたい、実験体の心身の体調管理こそがプロジェクトの要でしょう。基本をないがし ろにしているとしか思えないわ。」

声がうわずり、英語のアクセントが思わず崩れる。いつもの私らしからぬ、感情的な言い方になったのを微かに悔やむ。時差のせいね。疲 れてるんだわ。

「…はい。おっしゃる通りです。ですが…。」

「実は、タブリス本人がこれをどう受け止めていたのかについても、色々な意見があるのです。彼は死の直前その日記を燃やしてしまって いるので、真相は永久に謎なのですが。」

「日記なんてつけていたの?」

思わず聞き返し、自分の中の奇妙な戸惑いに気づく。
確かに普通の人間の男の子なら日記くらいつけていてもおかしくない。でも…
同じ赤い瞳がまた脳裏に浮かぶ。微笑みもしない、氷のような娘。

「はい。タブリスは知能が高い上に、非常に感受性が豊かでした。文才もあり、時折、詩のような文章すら作っていたそうです。」

ますます驚く。詩ですって?

「あなたは読んだことがあるの?」

いえ…と言いにくそうに口ごもった後、彼は続けた。

「タブリスは日記を人に見せたがりませんでした。件の所員だけが、知っているのです。その、取調中だった…」

「その所員本人は何て?今も取り調べは続いているのよね?」

「…いえ。実際のところ、今は尋問が出来る状況ではないのです。二日前、所員が目を離したすきに自殺を図りました。向かいの棟のあの 窓から、飛び降りたんです。落下時に頭部を強打して今は昏睡状態です。意識が回復する見込みは立っていません。」

私は黙って彼の指さした先を見た。窓ガラスに蛍光灯の明かりが反射して、闇夜の風景はわからなかった。

「ヨアヒム・ローレンツ…昏睡状態の者のことですが、彼にも家族はいました。そして不祥事を起こしたとはいえ彼は優秀な同僚でしたか ら、我々としては…非常に複雑な気持ちです。」

何気なく発されたローレンツという姓を耳にした途端、私は何故「虐待」の発覚がここまで遅れたかを即座に理解した。いや、むしろよく その男の尋問にまでこぎつけたというべきか。(損失の大きさに、議長もかばいきれないと判断した訳ね。)
だけど気づかぬふりをして質問を付け加える。

「その彼…ヨアヒムとやらは、何故突然自殺を?タブリスが死んだことを悔やんだから?それとも、虐待が露見したことを恥じたの かしら?」

「それは…私にはわかりません。」

所員はため息をついた。眼差しはうつろで、声には疲労と困惑がにじみ出ていた。
恐らくは今回の件に自らの進退がかかっているのだろう。ひょっとしたら彼は数日中に研究所からは消えなければならないかもしれない。



予想していたよりも劇的で、刑事事件のような展開。



だけど率直なところ、私個人としては気が楽になったのも事実だった。
タブリスの自己破壊の原因はずいぶんとはっきりしているではないか。

話を聞くまでは、レイのように感情の起伏も乏しく自我意識も希薄な子供が突然発作のように自殺衝動にかられたようなケースを想像して いた。人間でない使徒 の自殺が人間的な感覚ではわかるはずがないと想定した上で、その予防措置のために死んだ「一人目」についての科学的・医学的な調査――サルベージの問題や 遺伝形質、代謝異常だとか――が必要になるだろうと考えていたのだ。

でも事件の経緯を聞く限り、タブリスは非常に人間的な人格を備えていて、しかも明らかな虐待者がいた。その彼との暴力的、性的な関係 が彼を死の衝動へと突き動かしたのならば、話は非常にわかりやすい。
同じ事を繰り返さないためにどういう予防措置を取ればいいのかは明らかではないか。要は虐待者になりそうな人間を遠ざければいいだけだ。

(…何だ、わざわざ日本から私を呼ぶまでもないじゃないの。)



だけどこのとき、私はまだ気づいていなかったのだ。
見かけのわかりやすさで、使徒である少年の自我について何かを理解したような気になることの恐ろしさに。



つづく


【作者後記】
オ リキャラ出しちゃってごめんなさい。本当は加持あたりに何か役割を振りたいところだったんですけどね…。思いつかなかった。