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le deuxieme

Genesis

2.


次の日は妙に朝早く目が覚めた。
これも時差のせいだ。今の時期、日本の方がドイツより7時間早く時が進んでいる。
向こうではもう昼過ぎを回った頃のはずだった。

でも頭が重いのはそのせいだけじゃない。
今日、あの少年に会う。

二人目のタブリスに。

昨夜到着したばかりだというのに、朝から夜まで容赦なく仕事がつまってる。短い日程に全てを詰め込んだから仕方がないのだけど。






自死した「一人目」の記憶情報バックアップは半年以上前に遡る古いものが注入されていた。「虐待」の記憶が混入することを防ぐためだ。だから新しく目覚める「二人目」の記憶にはその半年間の空白が出来てしまう。

「二人目には、ダミープラグ関連実験中に心理汚染が起こり、数ヶ月間昏睡状態に陥っていたという偽の情報を与えてあります。」
「では、自分が二人目であることは知らないのね。」
「はい。基本的に、日本から赤木博士にいただいた指示通りに対応しました。」

実は一人目の事件があった後、この個体を水槽の外に出すにあたり私は連絡を受けていた。
そのときはタブリスのこととは知らされず電話で「サルベージの概念とその手順」についての一般的な質問を受けただけだった。
でも東京にいた私にはそれが何を意味するかほぼ察しがついていた。既に日本でも過去に同様の事例があったから。それで今回の仕事の要請にも驚かなかったのだ。

「本人はそれで納得しているのかしら?タブリスは割と聡い方だと聞いたので少し心配していたのだけど…」
「外界の記憶があやふやになることにさほど驚きはないはずです。10歳を過ぎるまで培養水槽と外界を行ったり来たりしていましたし、これまでも何度か、ダミープラグ関連の実験では記憶障害を経験しています。だから今回も静かに説明を受け入れていました。」
「素晴らしいわ。こちらの仕事もやりやすくなる。」

ダミープラグ試作実験の進展はドイツの方が早いらしい。しかし日本よりも実験機器の整備が不十分なまま、性急に計画を進めている様子がうかがえた。一度や二度ならまだしも、そう何度も記憶障害が起こるようなエラーを繰り返すとは穏やかじゃない。これもタブリスの心理的不安定の原因かしら、と私はふと思う。

「ダミープラグの実験は進んでいるようね。」
「いや、それが開始したはいいんですが、なかなか手詰まりで…そちらの方も赤木博士に是非ご助言願いたいと思っていたところです。」
「あら、ダミープラグなら、東京支部はここよりも遅れているのよ。」
「総合的な経験の蓄積はそちらの方が上ですよ。シンクロデータも含め、総合的なアプローチを求められますから。」

彼らが私にここまで頼るのには理由がある。実はここ、ドイツでタブリスの「製作」に関わった一番の功労者はもうこの世にいないのだ。
アダムの魂とその肉体を構成する物質の組成に最も通じていた人物。
彼女は同時にエヴァンゲリオン弐号機の開発に携わり、そして――――壊れてしまった。
幼い一人娘を残して。


「こちらです。」

地下深く潜ったはずなのに、通されたそこは奇妙に白く明るい空間だった。乳白色の壁と大理石のような材質の白い床が人工照明を柔らかく反射している。所々にはコーヒースタンドや観葉植物まで置いてある。
地下に重要な設備を集中させている点で施設の構造は似ているのに、私の職場とはだいぶおもむきが違った。
白い服で鉄パイプのベットに腰掛けて、薄暗い闇をじっと見据えていた赤い瞳の娘をふと思い出す。きっと今日も昨日と変わらず、淡々と同じような一日を送っていることだろう。

ここは明るくて素敵ね、そう言うとと案内役の所員は、この部分が居住区だからですよ、他の場所は陰気な場所もあります、と笑った。

「この部屋にいます。」

自動ドアが開いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

視界が真っ直ぐに、扉の奥、こちらを振り向いた少年を捉えたからだ。廊下よりも眩い暖かな色の人工灯に照らされ白銀に輝く髪、抜けるように白い肌、そして見知らぬ大人である私に微塵の躊躇もなく向けられた、赤い瞳。

その少年の顔をどのように形容するべきか、私にはわからない。彼は明らかにどの人種にも属さず、それでいてどの民族にも少しずつ似ていた。だけど私の知っている何からも少しずつ、違っているのだった。
あの娘にも似ていた。特に「美」としか呼びようのないその圧倒的な透明感において。
だけどその存在感は異質のものだった。とりわけ、真っ直ぐ射るように私を貫くその眼差しがまるで違った。

12歳ほどの少年の外見をしたこの生きものに束の間こうして目を奪われてしまったのは、外見の美しさだけが原因ではない。生きて動いている彼を見たことの動揺もそこには加わっていた。
無意識のうちに、この彼の上にあの「一人目」、すなわち死んだ者の面差しを辿りかけて、ぞっとしたのだった。


(いやだわ。)
(自分達のやっていることがわかっているつもりでも…死と生がこういうふうに交わることに、心は本当の意味で慣れることはない。)



「この子は何語を理解するの?」
内心の動揺を押し隠して側の所員に英語で訊く。だが所員が回答するより早く、凜とした声が飛んだ。

「英語も分かります。」

はっと振り向くと、部屋の奥、腰掛けているその生きものと再び視線が交わる。
吸い込まれるような瞳の、深紅。
だが本当にどきりとしたのはその次だ。but、と区切って彼が続けたのだった。何よりも私の耳に親しんだあの平坦な発音の言語――日本語で。

『日本語でもいいですよ。』

まるで生まれたときからそこで育ったかのような美しい発音だった。
欠点といえば同年代の「普通の」日本人の子供と比べると少々「正しく」話しすぎることくらいで、それゆえにかろうじて異国で後天的に学んだのだということが察せられる。そのくらいに完璧だった。

英語もということは、他にも理解する言語があるのだろう。

『沢山言葉が話せるの?』

私も日本語に切り替える。

『それほどではないです。博士。ドイツ語を基本として、英語と日本語は講師に習いました。あとは独学でフランス語とラテン語、古典ギリシア語を少々。機会があればそのうち中国語なども学んでみたいと思っています。』
『すごいわね。』
『僕、多分耳がいいんです。音楽も好きですし。』

耳が、というより知能のあり方そのものが違うのだろうと私は思った。側にいた所員の方を振り向く。金髪の、いかにもゲルマン系といったその所員は肩をすくめて笑い、お国訛りの抜けない英語で言った。

「すごいでしょう。僕はあなた方が何を話していたのかまるでわからないけど、とにかくタブリスはすぐに何でも覚えてしまうんです。初めて水槽から出た後すぐに教えたのはドイツ語なんですが、そのうち僕らの話している英語もまねして口にするようになって、ちゃんとした講師を付けたら一ヶ月くらいで今みたいに完璧なアクセントで話し、本まで読むようになったんです。な、そうだろ?タブリス。」

所員は自然に「一人目」のタブリスの過去を今目の前にいる「彼」の話として物語っている。もう、一人目のタブリスをこの二人目と接続することに何の違和感も感じていないようだった。

「日本語はもう少し時間がかかりましたけどね。まるで違うから。」

やはりそれを「自分の」体験だと信じている、何も知らない二人目の少年が微笑む。その白い腕にためらい傷の跡はない。


奇妙な戸惑いを覚えながらも、とりあえず私はつとめを果たすことにした。知的能力と心理状態の安定度を測る簡単なテストだ。
脳波を測定しながらいくつかの質問と単純な作業を与える。
結果には何ら異常は認められなかった。ただ、タブリスが大変高い知能を持つことだけが改めて確認された。

「素晴らしい数値ですね。ベストの状態といえるでしょう。」

側で所員が頷いた。明るい光に照らされ、私の中でも、ためらい傷のある死体の記憶が遠くなっていく。

(…これでいいんだわ。そうよ、誰も死んでいない。あれはスペアだもの。)


そう、問題ない。全て順調。テストの後も少年は屈託がなく、所員は終始朗らかだった。私も次第に最初の緊張がほぐれ、気がつけば一緒に会話を楽しんでいた。非常事態の後、物事が元通りの位置に収まっているのを確認できたかのような安堵感が私を包んでいく。


唯一、どきりとしたのは部屋を離れる前の瞬間だけだ。じゃあ、明日9時に来るわね、ときびすを返した私の背中に、そういえば、と少年が話しかけたのだった。何気ない、軽やかな歌うような声で。

「赤城博士、伺おうと思って忘れていたことがあるのですが。」

「何かしら。」

「僕、身体のどこかに怪我をしていませんでしたか?」

「…えっ。何の、話かしら?」

「ひどい怪我をしていたような記憶があるのです。だけど目覚めてみたら身体のどこにも何もないから、ふと確かめてみたくなって。眠っている間に治ったのでしょうか。」

「…あなたは怪我はしていないわ。思い違いよ。記憶が混乱しているんだわ。または、夢を見たのね。」

「そうですか。」

少年はにこりと微笑んだ。



つづく


【作者後記】
どうも、前回と大分間があいてしまってすいません…!
地味に書き進めてはいました。大きい仕事が一つ片付いたんで、着実に話を進めていきたいです。
なお、この話で採用してる設定を書いておくと、
・レイやカヲルは事故があったとき速やかにスペアを目覚めさせるため、ちょうどコンピュータみたいに、記憶のバックアップを行っている。
・バックアップはあの細い筒状の水槽につかっているときに行うことが出来る。
・スペアが目覚めるときは一番新しいバックアップを利用する。
という感じです。

なお、記録した記憶情報を他の人が、映像再生みたいに「見られる」のかどうかについてはすごく悩みましたが、基本的に出来ないことにしました。
例えば遺伝情報がAGTC-GATC-ATGCなどと、一見したところ情報そのものとしては意味をなさない塩基配列の連なりであるように(注)、コンピュータの中にデータとして落とされた記憶は、「xawegzxdrgaserdiehfmxifheibaszfezxfe...」などとなっていて、人が見ても何を意味するのか解らない。ただ、それを「頭脳」という再生装置に注入したときだけ、その頭脳の持ち主にとって何なのかわかるということにしようかなと思いました。で、迂闊に誰かの「記憶」を、自我をちゃんと持ってる第三者の頭脳に注入することは精神崩壊を引き起こしかねないくらい危険なことなのでやれないということにします。だって、記憶って「私は〜である。」という自我そのものの拠り所だから。レイとカヲルの「スペア」は白紙だから記憶を入れてもおかしくならないのです。
つまり、他人の記憶のバックアップは出来るけど、自我を崩壊の危機にさらさない限りその内容は原則として見れないという状態。だから、この話でもリツコさんは「記憶のバックアップを調べてタブリスがどういう問題を持っていたか調べる」という手段が取れないのです。



(注)DNA塩基配列の意味を理解するためには、その連なりがどういうふうにRNAに転写され、そこでいかなる種類のタンパク質の生成につながり、更にそのタンパク質が人体の中で何を作るのに使われ、どういう働きをするかを知らなければならない。そのためには膨大な時間が必要…なはず。