天体観測

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1.偶然

夏休みの夕方、校舎を一人歩いていた。
しんと静まり返った建物を薄青い夕闇が包んでいく。

家に居場所は無くて、もともと夏休みは嫌いだった。

でも今年はもっと嫌だ。
だって、別れの日が近づいてくるから。



終業式の日、お別れ会があった。

同じクラスの渚カヲル。季節外れの転校生。

ずっと、好きだった人。

もうすぐドイツに行ってしまう。

秘密にしていた片思い。
多分初恋。


クラスは同じでも、まともに話した事は数えるくらいしかない。

好きだったけど、遠い人。
これからはもっと、手が届かなくなる。







だけど、憂鬱な日々の中でも今日だけは違う。特別な日になろうとしている。
シンジはまだ、夢をみているような心地で昨日の事を思い出す。
本当に、一生に一度もあるかないかの幸運。
午後、用事があって街へ出かけたときだった。交差点で誰かに声をかけられた。

「同じクラスの碇くん…だよね。」

振り返り、心臓が止まりそうになるほど、驚いた。
そこに彼が―――カヲルが立っていたからだ。

「こんなところで会うなんて奇遇だね。」



それから二人、歩きながら少しだけ話した。何を喋ったのか、すっかりあがってしまっていたシンジはまるで覚えていない。まともに話した初めての機会だったというのに。

だけど、

「じゃあ、僕はこっちだから。」

微笑んで彼が去ろうとしたそのときだ。自分でも思いがけない勇気が出た。

「…渚くん、明日の夜、時間ある?」





待ち合わせは夜の8時。

校門に立って一人、空を見上げる。天の中空は夜に塗りつぶされ、三日月がほの白く輝いている。
夜風が頬を撫でて、ふわりと制服のシャツが風を孕む。どうせ誰もいないのに、律儀に制服を着てきた。

「遅れてごめん。待ったかい?」
柔らかい声、振り向くと待ちわびた人がいた。

「う、ううん…。僕の方こそ、少し早めに着いていたんだ。」

カヲルは私服だった。ゆったりとしたブルージーンズに黒い無地のTシャツという簡素な出で立ちだが、その無造作さがかえって街灯の光に照らされ鈍く輝く白い肌と、淡い色の髪を際立たせている。シンジは一瞬見とれた。

「僕も制服を着てくるべきだったかな。何か規則だとか…あったっけ?」
シンジの視線の意味を深くは考えず、カヲルが少し当惑したように笑う。

「どうせ誰もこないから大丈夫だよ。」
それにカヲルくんはもうこの学校の生徒じゃなくなるし…と言おうとしてやめた。
「僕のは…いつもこういう機会があるたびに制服で来てるから…習慣みたいなもんなんだ。」

そして、こっちだよ、と手招きして校舎へと導いた。



階段を上り詰めた先、屋上の手前に小さなドアがある。
天体観測室だった。
多くの生徒にはあまり縁のない、そう知られても居ない場所。鍵を開けて入ると小さな小部屋になっており、高いところに天窓の空いたロフトがある。そこに天体望遠鏡が備え付けられているのだ。


「君が天文部だったとは、知らなかったよ。」
カヲルが目を細めて懐かしいものでも見るように望遠鏡を見る。

「…あんまり熱心じゃないんだ。部員が殆ど居なくて、最近は活動なんて無いようなもんだし。でも時々こうして、夜、星を見に来るのが好きで。」
シンジは彼と目を合わせることが出来ない。心臓の鼓動、息が苦しい。
「あんまりカッコいい趣味じゃないから人に話す気もしなくて…なんかオタクっぽいし。」

「そんなことはないさ。僕も子供の頃、星を見るのは好きだったよ。そういえば小学校の頃望遠鏡も持っていた。…ドイツに置いたままだけれど。」

カヲルはシンジ達の高校と交換留学制度のあるドイツのギムナジウムから一年の予定で入ってきた留学生だった。
国籍はドイツだが母親は日本人。その母親に家庭では日本語を使わされ、週末は日本語の補習校にも通わされたとのことで、ほぼバイリンガルだった。しかも全体として頭脳明晰、眉目秀麗とくるから、出来過ぎた感が無くもなかった。だが幸い、日本の常識が抜けておりどこかズレているのがいい具合に天然っぽい魅力となって効いていて、憎めない人好きのする少年としてクラスにも受け入れられていたのだった。



彼の事をいつから好きだと意識したのがいつだったのか、記憶は定かではない。ただ、気がついたら目が追いかけていた。もちろん、誰にも内緒の話だ。
だけどそれぞれ交遊範囲が違い、殆ど接点は無かった。


そんな人を突然、街で偶然会っただけで星を見よう、と誘った。

唐突にそんな強引な行動に出たのにはそれでも訳がある。街で会ったカヲルが買ったばかりの夜空の写真集を持っていたからだ。
特に星に詳しいわけではないけれどこういう空が好きなんだ、と彼は言った。


つづく
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